岡田ジャパンを結束させた3つの要素=選手の証言でひも解く日本代表総括 第2回

元川悦子

ドイツ大会を経験した“ベテランの存在”

デンマーク戦の前半、岡田監督は遠藤ら選手の意見を聞き入れ、システムを4−3−3に戻した 【写真:澤田仁典/アフロ】

 こうしてカメルーン戦を境に、日本代表の流れはガラリと変わった。岡田監督は戦術変更と大幅なメンバー入れ替えに対する疑問や不安、批判的な意見をすべて封印することができたし、「決勝トーナメントへ行こう」というチーム全体の機運も盛り上がってきた。

 その反面、勝利によってレギュラーと控えが完全に決まったのも事実だ。ドイツでは大会前の明確な序列が不満を生み、不協和音の大きな原因になっている。プライドの高い選手のそろう代表チームは、常にこうした危険性をはらんでいる。
 南アをサッカー人生の集大成と位置づけていた中村俊輔らは、大会中のレギュラー奪回に一縷(いちる)の望みを抱いていただろうが、その可能性が一気に遠のいた。実際、パラグアイ戦の後「大会中は耐えるので精いっぱいだった。できるだけメディアの前でしゃべりたくなかった」と本人は苦しい胸中を吐露している。
 最終予選で軸を担った岡崎慎司や玉田、中村憲らも、南アで何らかの達成感を得たかったに違いない。しかし、悔しいことに出場のチャンスは減っていく。この厳しい現実に折り合いをつけながら、チームを支えていくのは、やはり大変な作業だったはずだ。

 そんな時、頼りになったのがベテラン勢だった。
「能活(川口)さんやイナ(稲本潤一)さんといったW杯経験のある人たちが、『こういう時だから控えがやるんだよ。控え組の練習は元気にやって盛り上がろうよ』という話をいつもしていました。大会が始まると主力はどうしてもコンディショニングになっちゃうから、練習も別になることが多い。そういう時こそ、控え組が紅白戦でも勝つくらいしっかりやらないといけない。僕はそれを教えられました」と中村憲は言う。

 98年フランス、2002年日韓、2006年ドイツ、そして2010年南アと、4度もW杯メンバーに入っている川口は、長年の経験から、戦う雰囲気の重要性を心得ていた。
「長くサッカーをやっていていろんなチームを見てきたけど、結束を大事にしているチームは強いと感じていたんで。ただ、それを代表で作るのは難しい。今回はみんなの努力が大きかったと思います」(川口)
 楢崎にしても、まさか川島永嗣にポジションを奪われ、控えで南ア大会を過ごすなど想像もしなかったという。
「ドイツでもそうだったけど、今回が最後のW杯だと思って、準備の段階から悔いの残らないように大会でやれることはすべて出すつもりだった。結局、自分は控えに回って悔しい思いをしたけど、年長者の態度を下の選手は見ているし、選ばれて代表に来ているってことを忘れたらダメ。過去には不満を態度に出す人も見たことがあるし、そういうのがプラスにならないことはよく分かっていますからね」

 チームに献身的に尽くす年長者たちの姿を見て、岡崎はかなり励まされたという。
「憲剛さんが『FWは大変だからね』と声をかけてくれたり、ホントに上の人たちに支えてもらいました。正直、ベスト16の達成感は先発の人しか持てないし、自分は悔しさしかないけど、先発で出ていた人たちもおれらの気持ちを分かってくれたから救われましたね」
 確かに今回の主力を見ると、駒野友一、阿部勇樹、松井、川島のような控えの立場を長く味わった選手が何人もいる。本田にしても大会前にスタメンをつかむまでは中途半端な扱いを受けていた。そんな彼らには、突然外された者の痛みがよく理解できるのだ。
「僕はドイツの時も1戦目で下げられたし、岡田ジャパンでもずっとサブだった。そういう立場にならないと本当のつらさは理解できないと思う。試合に勝ってもうれしさ半分、悔しさ半分になるのもよく分かります。そういう人たちが支えてくれると実感しながら、僕はピッチでプレーしたつもりです」(駒野)

選手たちに芽生えた強い“自主性”

 岡田監督が23人のメンバーを選んだ際、「平均年齢(27.83歳)が高すぎる」という批判もあった。しかし結果的には、サプライズ選出した川口を筆頭に、ドイツでの失敗を経験した選手たちがチームを救った部分は否めない。ベテラン重視の選考は見事に当たったといえる。最終予選の時は完全にメンバーを固定していた指揮官が大会前に大胆な入れ替えをしたことも、違った立場の人間への気遣いを生むことにつながった。すべては結果論ではあるが、岡田武史という人は本当に強運なのだ。

 これだけの強固な一体感が自信になったからだろうか。指揮官はオランダに敗れた後の24日の第3戦・デンマーク戦で1つの賭けに出る。阿部をアンカーに置いた4−3−3から、以前やっていた4−2−3−1に戻して挑んだのだ。勝つために守備重視の戦術に転換した岡田監督も、心のどこかで「2年半、積み重ねてきたことをぶつけたい」と考えていたのかもしれない。引き分け以上で16強入りできるアドバンテージもあって、思い切ったトライに踏み切った。

 だが、試みは無残な形に終わった。トマソンにバイタルエリアを自由自在に動き回られ、開始10分で第2戦までの4−3−3に戻すことになる。キックオフ早々から岡田監督と長友佑都がタッチライン際で話し合いを始め、最終的に遠藤保仁が「戻した方がいい」と主張。これを指揮官が受け入れて、ようやくゲームが落ち着いた。この素早い判断がなければ、3−1の勝利はあり得なかった。
「(直前合宿が行われた)ザースフェーでのミーティングも、デンマーク戦でシステムを戻したこともそうですけど、選手が自分から意見を言って何かを変えようとするようになったところは、本当にチームとして進歩した部分だと思います」と駒野が話すように、短期間で選手たちに強い自主性が芽生えたのは特筆すべき点だ。

 メンバー23人を選び、戦術を変え、スタメンを入れ替えるという要所要所の決断をしたのは岡田監督だ。しかし重要な局面で指揮官を後押したのは選手たちである。ギリギリまで追い込まれ、「自分たちで何とかしなければいけない」と心底、危機感を抱いたからこそ、彼らは強い意志を持てた。指揮官はそんな選手たちに助けられたのかもしれない。

 揺れていたチームがカメルーン戦の勝利で迷いを払拭(ふっしょく)し、ドイツ大会を知るベテランが不協和音が出ないようにサポートする。苦境を経てつちかわれた選手の自主性により、チームはさらにレベルアップを果たした。こうして一枚岩になった日本は、ベスト8を懸けてパラグアイと戦うことになる。

<第3回に続く(24日掲載予定)>

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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