アルゼンチン代表監督をめぐる紆余曲折
マラドーナ体制の終えん
退任会見で涙を浮かべたマラドーナ 【Photo:ロイター/アフロ】
31年8期にわたりAFA会長に君臨し、2011年に任期が切れるグロンドーナは結局、26日にマラドーナと会談を持った。その際、代表監督に契約延長をオファーしたものの、その条件として現コーチ陣のうち7人の交代を求めたという。そのうちの2人はアシスタントコーチで、2人はフィジカルコーチだった。後にマラドーナが非難しているように、グロンドーナはこの条件ではマラドーナが監督を続けることはできないことを知っていたのだ。
会談に先立ち、マラドーナは地元テレビ局のインタビューに応じ、コーチ陣などの人選を一任されることを条件に、監督を続けるつもりであることを明かしていた。マラドーナの性格上、仕方がなかったことだったとはいえ、駆け引きという意味では、この発言は不用意だったと言わざるを得ない。このタイミングで言うべきことではなかっただろう。なぜなら、コーチ陣の1人であるアシスタントのアレハンドロ・マンクーソは、ビラルドの天敵である78年W杯の優勝監督セサル・ルイス・メノッティに考えが近く、グロンドーナはマンクーソを拒絶すると考えられていたからだ。
だが、26日のミーティングで、グロンドーナはマンクーソのみならず、ほかの6人のスタッフについても「ノー」を突きつけた。つまりは、マラドーナを否定したということだ。それから数時間後、AFAの理事会メンバー28名は、全会一致で元スターとの関係を終わらせることを決定した。
地獄の始まり
そもそもグロンドーナが2008年11月にマラドーナを代表監督に招へいしたのは、前任のアルフィオ・バシーレが10年W杯の南米予選の真っただ中に辞意を表明したからだった。協会は説得を行ったが、バシーレの決意は固かった。当初、後任にはカルロス・ビアンチが有力だという話もあった。だが、グロンドーナの2人の息子が、マラドーナにチャンスを与えるよう、父親を説得したのだった。
マラドーナの代表監督としての仕事ぶりは、理想とは程遠いものだった。チームとしての戦術は皆無に等しく、2年足らずの間に招集した選手の数は108人にも上った。また、自らがコーチに希望するオスカル・ルジェリの入閣が協会から拒否されると、「自分には決定権がない」とメディアに不満を漏らすなど、常に話題を振りまいた。
そして忘れてはならないのは、W杯敗退を受けて協会はマラドーナの続投を支持するコメントを出していたものの、辞意をほのめかしていたのはマラドーナ自身だということだ。グロンドーナも“特別な人物”と続投に前向きだった。