誤審問題で再燃したビデオ判定をめぐる議論=審判の世界観が垣間見られる映画『レフェリー』

平床大輔

2つの誤審でビデオ判定の議論が再燃

テベスのゴールがオフサイドだとしてロセッティ主審(中央)に激しく抗議するメキシコの選手たち 【Getty Images】

 早いものでワールドカップ(W杯)も残り4試合となった。約1カ月にわたる寝不足の日々にピリオドが打たれようとしている。準決勝、そして決勝と来るべきクライマックスに心躍るものの、同時に夏の終わりの夕暮れ時のような寂寥(せきりょう)感が漂い始めている。
 まだこの大会の総括をするのは時期尚早なのだが、ちょっと振り返ってみると、さすがW杯というべきか、ピッチ内外はカラフルな出来事に富んでいた。“バファナ・バファナ”(南アフリカ代表の愛称)のグループリーグ敗退、フランスの恥辱、日本の雄飛、マラドーナの蹉跌(さてつ)などなど。そして今大会を語る上で避けて通れないのが、レフェリーの判定に関する問題と、それに伴って発生したビデオ判定の是非を問う議論である。

 このビデオ判定をはじめとするハイテク技術の導入は以前から議論の対象となってきた。FIFA(国際サッカー連盟)はこれまでにもIFAB(国際サッカー評議会)を通じて、テニスやラグビーなどで採用されているビデオ判定や映像解析システム、超小型電子チップを埋め込んだボールなどの採用を検討してきたが、そのたびに新技術の導入に扉を閉ざす決定を行ってきた。
 しかし、今大会のラウンド16では、ドイツ対イングランドでイングランドの同点ゴールが見過ごされ、アルゼンチン対メキシコでは、明らかなオフサイドでカウントされるべきでないアルゼンチンの先制点が認められた。あまりに重大な判断ミスが連続して発生してしまったため、この議論が再燃したのである。
 まあとにかく、「レフェリーの不完全な部分をテクノロジーで補って、より公正なジャッジメントの上で試合を成立させましょうや」という一派と、「その不完全さにこそ、このスポーツの魅力があるんじゃないのかね? だいたい、いちいちビデオ判定をしていたら、試合の流れが停滞してしまうじゃろうが」という一派と、その両者の中間的立場の人たちがいて、あれこれ言い合っているのが現状である。

 僕は個人的にビデオ判定の導入には懐疑的なまなざしを持っているのだが、いずれにせよ、これはフットボールの根幹を成す部分にメスを入れるような行為になりかねないだけに、一時の感情論などで物事を判断するのでなく、議論に際し慎重に知恵を出し合う必要があるのは言うまでもない。
 そんな、ビデオ判定やそのほかのハイテク技術導入の是非を論議するにあたり、われわれはレフェリーの世界観を把握し、その議論というまな板の上に、レフェリーの見地に立った考察をファンや選手の見地に立った考察とともに乗せる必要があるのではないだろうか、と思わずにはいられない。そんな問い掛けに対し、ひとつの解答を差し出してくれるのが、映画『レフェリー 知られざるサッカーの舞台裏』である。

選手もレフェリーも人間。そこには必ずミスが存在する

『レフェリー 知られざるサッカーの舞台裏』 【提供:J SPORTS】

 ドキュメンタリー映画『レフェリー 知られざるサッカーの舞台裏』の舞台は、2008年にスイスとオーストリアの共同開催で行われたユーロ(欧州選手権)。ロベルト・ロセッティ、マッシモ・ブサッカ、ハワード・ウェブ、メフート・ゴンサレスといった、欧州フットボールのファンにはおなじみのデラックスなレフェリーの面々が中心人物として登場する。
 映画は、いきなりブサッカ主審と2人の副審、そして第4の審判との間で交わされた試合中の無線の会話のシーンで幕を開けるのだが、これが衝撃的である。僕の、そして恐らくは多くのフットボールファンの知らなかったフットボールの側面が、新鮮という表現を通り越した、かなり生々しい状態で提示されるのである。この無線の会話に並んで圧巻なのが、レフェリーの控え室。そこには祈りや、悔恨や、充足感やディグニティー(尊厳)が、半ば息苦しい状態で詰まっている。

 それにしても、レフェリーというのはフットボールの世界においては、かなり損な役回りである。試合を壊した張本人としてつるし上げを食らうことはしばしばあれど、賞賛されることは稀(まれ)である。しかし、彼らはフットボールという競技が存続する限り、レフェリーも人間である以上ミスを犯すという、普遍の定理とレフェリーとしてプロフェッショナリズムを胸に、W杯なり、ユーロなり、チャンピオンズリーグなり、そういう大舞台に出向いて笛を吹くのである。
 恐らく、そこには彼らにしか手に入れることができない達成感や充実感の極みがあり、故に、ある種の中毒性みたいなものがあるのだろう。そして、そんなレフェリーの祈りが、選手たちの祈りやファンの祈りと重なり合った時、ピッチ上に、あるいはスタジアムに豊穣な瞬間が訪れるのではないだろうか。

 僕自身は1人の観客としてフットボールにかかわっているので、この映画を通じてレフェリーの世界観を肌で感じることはできても、それに対して同調することはできない。そりゃあ僕だって、レフェリーに煮え湯を飲まされたことだってある。彼らの達成感には、どこか独善的な部分があるように思えないでもない。しかし、それはフットボールというゲームの一部である、と思う。選手もレフェリーも人間であり、そこには必ずミスが存在するというどうしようもない人間くささが、フットボールならではの魅力を成立させているのではないかと、この映画を見てそう再確認した次第である。

 とにかく、この映画は今回のW杯で起こった一連の誤審問題およびビデオ判定導入の是非に興味を持った人にとっても、単なるフットボールファンにとってもかなり興味深いコンテンツだと思う。少なくとも、僕は自分の周囲のフットボール好きにこの映画を推奨しようと思う。しかし、すごいタイミングで上映しているな、この映画(しかも映画のポスターは“あの”アルゼンチン対メキシコの笛を吹いたロセッティである)。ちなみに、僕はこの映画を見て、ハワード・ウェブがちょっと好きになりました。思ったより理知的で凛とした人ですね、ウェブさんは。

<了>


※映画『レフェリー 知られざるサッカーの舞台裏』の詳しい情報は公式ホームページへ。
http://www.webdice.jp/referee/
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著者プロフィール

1976年生まれ。東京都出身。雑文家。1990年代の多くを「サッカー不毛の地」米国で過ごすも、94年のワールドカップ・米国大会でサッカーと邂逅(かいこう)。以降、徹頭徹尾、視聴者・観戦者の立場を貫いてきたが、2008年ペン(キーボード)をとる。現在はJ SPORTSにプレミアリーグ関連のコラムを寄稿

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