ヨハネスブルクで肝試し=中田徹の「南アフリカ通信」

中田徹

ハウトレインでサントンへ

エリスパークで行われた準々決勝、パラグアイはスペインのビジャの1点に泣いた 【(C) FIFA/FIFA via Getty Image】

 ヨハネスブルク国際空港と同市内のサントン地区を結ぶ、ハウトレインという電車はシルバー基調の車体にゴールドのラインが入っていて、とってもカッコいい。本来は、ワールドカップ(W杯)開幕に合わせてプレトリアもつなぐ予定だったのだが、こちらの線は2011年まで開通が延びてしまった。
 ハウトレインは空港とサントンを15分でつなぐ。サントンは比較的治安がいいと言われる地域だが、「電車の開通によって犯罪者が来やすくなってしまうのでは?」という懸念の声もあった。しかし片道100ランド(約1100円)と、こちらの物価からするとかなり高額な乗り物なので、今のところはそれほど心配ないだろう。
 昨年、コンフェデレーションズカップで南アフリカを訪れた時、空港からサントンまでタクシーで350ランド(約4000円)だった。だからハウトレインは高いけれど、それでも旅行者にとっては財布に優しい乗り物だとも言えよう。

 オランダメディアが「ポートエリザベスの驚き」と称したオランダ対ブラジルを観戦した翌日、僕は昼食をとるためハウトレインでサントンへ向かった。出発駅であるO.R.タンボ国際空港駅ではガラガラだったハウトレインが、次のローデスフィールド駅で超満員になる。そのあまりの混雑ぶりに警備員はホームへの入場制限をせざるを得なかったようだ。
 そのお客のほとんどが子連れの家族たち。僕がいた6人掛けのボックスシートはお父さん、お母さん、息子と娘、そしておばあちゃんがやってきた。子供は乗り物が大好きだ。外を見る目が好奇心でクリクリしている。彼らはサントン駅で満足そうに降りて行った。
 サントン駅のすぐそばにはマンデラ広場があり、世界中から多くの観光客がやってくる。おいしいレストランもいっぱいあり、僕はお気に入りのステーキハウスに入ったのだが、そこはスペインサポーターとパラグアイサポーターのスペイン語で溢れていた。元オランダ代表のファン・ホーイドンクも同国のテレビ関係者と一緒にいた。ハウトレイン、そしてマンデラ広場……。とてもヨハネスブルクとは思えない幸せな半日だった。

そうだ、町へ行こう

ヨハネスブルクの町は廃墟のビルやマンションが続く 【中田徹】

 それから僕はエリスパーク・スタジアムへ行き、テレビでアルゼンチン対ドイツ戦を見た。試合が終了したのが夕方6時。すでに日は暮れた。
 なぜかここで、僕は「町へ行かねば」と思ってしまった。この日がエリスパークでの最後のW杯。コンフェデレーションズカップも含めると、僕は何度も何度もここへ通った。その途中、ヒルボローと呼ばれる繁華街(かつ危険地域)があるのだが、そこの脇の公園では毎度若者たちがフットボールに興じているのが見えた。この日はマンションの窓から子供たちが一生懸命、僕が乗ったシャトルバスに手を振っていた。ほんのちょっと。ほんのちょっとだけエリスパークから離れるだけなら大丈夫だろう。そう思いながら歩き出した僕だが、ジャケットのポケットに入れたコンパクトカメラを持つ手がジワリと汗ばんでいるのがよく分かった。

 スタジアムのすぐ外には、きれいなガソリンスタンドと世界的に有名なチキンとハンバーガーのチェーン店があった。そこを過ぎるとすぐに闇になり、W杯の観戦客向けを狙ったお土産物屋が並んでいるが、客はほとんどいない。その脇には薬物中毒者が目をトロンとさせていた。
 前後左右を目だけでなく、耳でも気を配って鉄道駅に向かって歩く。たった200メートルほどの道だったが、人通りも少なく緊張する。しかしやがて鉄道駅からたくさんのスペインサポーターがやってきた。案外、彼らは無頓着にヨハネスブルクの鉄道を乗って移動しているのかと思うと、ホッとすると同時にものすごい疲れが襲ってきた。ともかく1人にならず、彼らの後ろに付いてスタジアムの方面へ戻ろう。

やっぱり怖かった

いい匂いをさせながら道端でチキンやソーセージを焼く。ほかの町に比べ、ヨハネスブルグの人はシャイな感じ 【中田徹】

 今度は線路の高架をくぐって、やや西へ行く。いくつものマンションがあるが、廃墟に近い状態で人が住んでいる気配はしない。ちょっと遠くにナイジェリア人たちが不法占拠してスラムを作った有名な丸いビルが見えるが、そこの窓ガラスからはまだ明かりがともって人が住む匂いがする。だがここは、1室2室を除いて闇のままなのだ。
 さらにセントラル(中心街)に向かって歩いていく。頑丈な鉄格子を備えたリキュールショップ、バー、雑貨屋などがある。この道を現地人に混じってスタジアムへ行く観戦客もいるが、もちろんそれは少数派だ。この真っ暗な、人通りの少ない道を過ぎると、やや場違いにきれいな公園が見えてきた。エンドパークというらしい。ここは鉄道駅からの抜け道になっており、急に人が増えた。と同時に、ややにぎわいを感じられるようにもなった。

 大音量の歌が聞こえてきたので近寄ってみると、どうやら宗教団体の施設だったらしく讃美歌をひたすら歌いまくっていた。ちょっとしたレストランがある。臓物やチキンを路上で焼いている人もいる。交通量も増えてきた。だいぶヨハネスブルクに対する警戒心が薄れ始めてきた。しかし僕をなめるように見る者もいる。僕の本能が「もうこれ以上行くな」と叫んでいた。
「何でおれはW杯の開催都市で、肝試しをやっているのだろう」と思いながらスタジアムへ戻った。体がカロリーを欲していた。砂糖をたくさん入れたコーヒーを飲んでからスペインとパラグアイの国歌を聞き、アイスクリームをなめながらキックオフの笛の音を聞いた。
 試合は後半に入ってからものすごく面白くなった。日本は力のすべてを出し尽くしパラグアイに敗れたが、パラグアイも日本同様、力を出し尽くしてスペインの前に散った。このパラグアイの姿に、「おれたちはコイツらに負けたんだ」と日本のサッカーを誇らしくさえ思えた試合だった。

 そして僕はまたエリスパークの外へ出る。今ならたくさんの帰りの客がいるはずだ。彼らと一緒ならヨハネスブルクの町も怖くないだろう。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言うではないか。

 でも怖かった。ヨハネスブルクの中心街へ向かって帰る客は少ないのだ。それでもパラグアイのサポーター集団は負けてなお晴れやか、意気揚々とセントラルへ行進し、3人ぐらいで固まっていたウルグアイのサポーターとエールの交換をしていた。
 ずんずんずんとパラグアイサポーターはセントラルへの歩みを進める。しかし彼らにはしっかりエスコートが着いていた。
 何なんだよ、このW杯は。町が燃えていねえじゃねえか。サントンとスタジアムの往復しか安全が約束されない、メーン開催都市・ヨハネスブルクでのW杯。これじゃ「ビビリのW杯だな」と思いながら、襲われないようにスタジアムへ帰った。

<了>
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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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