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中村俊輔、W杯と縁のない男
背番号「10」の南アフリカでの孤独な戦い

サッカー人生の集大成のはずが……

サッカー人生の集大成と位置付けて挑んだW杯だったが、俊輔がピッチに立ったのはオランダ戦の26分間のみだった
サッカー人生の集大成と位置付けて挑んだW杯だったが、俊輔がピッチに立ったのはオランダ戦の26分間のみだった【Photo:ロイター/アフロ】

「ワールドカップ(W杯)に縁がない? そうだね、何なんだろうね。そういうふうにできているんじゃないですか。山あり谷ありでしょ。その方が面白いでしょ、終わった時」


 6月29日、パラグアイ戦が終わった後のミックスゾーンで、中村俊輔は寂しく笑った。サッカー人生の集大成と位置付けたW杯・南アフリカ大会でピッチに立てたのは、19日のオランダ戦の26分間のみ。本人は「コンディションは戻ってきた。ミスもあったけど、中盤で組み立てたり、落ち着かせたりする仕事はできたと思う」と前向きに語っていたが、何度も相手にボールを奪われ、勝負すべきところで長友佑都に逃げのパスを送ってしまうなど、全盛期の彼とは程遠い出来だった。岡田武史監督はこれまで絶対的エースとして信頼を置いていた背番号10に望みを託したのだろうが、その期待に応えることは最後までできなかった……。


 中村俊輔は国際Aマッチ98試合24得点という偉大な実績を残してきた選手である。2000年レバノン、04年中国のアジアカップ連覇に貢献し、04年大会ではMVPに輝くなど、誰もが認める仕事をした。彼ほど日本代表、そしてW杯に強いこだわりを持つ選手はいないと言っても過言ではない。


 だが、夢舞台には縁がなかった。

 つまずきの始まりは、初めて日本代表に招集された1998年2月のオーストラリア合宿にさかのぼる。当時の指揮官・岡田監督は横浜マリノスで完全にレギュラーに定着していない19歳の俊輔を抜てきした。だが、アデレードに到着するや否や負傷し、アピールの機会を失った。その2カ月後の日韓戦にも呼ばれたが、急成長していた1つ年下の小野伸二に押されて出番はなし。結局、98年フランス大会は落選の憂き目に遭った。00年2月のシンガポール戦で初キャップを刻むまで、俊輔は初招集から2年もの月日を要することになったのだ。


 トルシエ時代も紆余(うよ)曲折の繰り返しだった。俊輔はトップ下でのプレーを強く希望したものの、中田英寿と小野がいたため、左サイドに回された。そのことに対する不満を頻繁に口にしたことでフランス人指揮官との確執が生まれ、最終的には02年日韓大会のメンバーから外された。「中村はけがをしていたし、ベンチに置いておける選手ではなかった」とトルシエ監督は説明したが、当時の彼にはその意味が分からなかった。

 今でこそ「2002年なんかかすり傷」と俊輔は話すが、この挫折は間違いなくバネになった。欧州へ渡って自分自身を磨き、器の大きな選手に成長したのだ。

日韓戦が「運命の分かれ道」

 ところが、満を持して中心選手として挑んだ06年ドイツ大会は目に見えない重圧からか、肝心なところで原因不明の発熱に見舞われた。猛暑のクロアチア戦の後、ウインドブレーカーを着て青白い顔をしてミックスゾーンに現れるほど、体調は最悪だった。

「W杯は何か起きるんだよね………。いろんなプレッシャーが毎試合あるから。ドイツではサブの選手もみんな個性が強かったし、いろんなストレスがあったのかな」と振り返るが、この悔しさは格別だった。


 だからこそ、10年の南アでは完全燃焼したい……。俊輔は欧州でさらに力を蓄えた。06−07シーズンにはセルティックを欧州チャンピオンズリーグ決勝トーナメントに導き、スコットランドリーグMVPにも輝いた。約9カ月ぶりに招集されたオシムジャパンでも際立った存在感を発揮。07年12月の第2次岡田ジャパン発足後もエースに君臨し続けた。彼がいなければ日本の4大会連続W杯出場はかなわなかったかもしれない。誰もが認める大黒柱に岡田監督も絶対的な信頼を寄せ、俊輔中心のチーム作りを進めてきた。

 しかし、09年夏にエスパニョルへ移籍したころから、俊輔は不振に陥ってしまう。あこがれのスペイン挑戦は失敗に終わり、今年3月には失意のJリーグ復帰を強いられた。その途端、左足首を負傷。だましだましJリーグや代表戦に出続けた。同じくコンディション不良に陥った遠藤保仁のように4月を丸々休んでけがを完治させればよかったのだが、俊輔は試合勘が鈍るのを恐れて無理を重ねた。今にして思えば、この判断が悔やまれてならない。


 そんな悪循環は、5月24日の日韓戦で最悪の形となって表れた。国際Aマッチ96試合目、最低の内容に終始した俊輔を見て、岡田監督もたまらず、後半18分に交代を告げた。「足にボールがつかないし、思い描いた通りにプレーできない。Jリーグではごまかせても代表ではそうもいかない」と本人は目もうつろ。ショックが大きすぎた。

「前から90分間プレスをかけ続けるやり方は、中心選手が最高のパフォーマンスを出すことを前提としていたが、彼らが調子を落としていたので、どこかで踏み切らなければいけなかった」と指揮官が後に語っている通り、この一戦が俊輔にとっての「運命の分かれ道」になってしまった。

元川悦子
元川悦子

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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