落ちたレ・ブルー、奇跡は2度起こらない=フランス代表が崩壊した理由

木村かや子

白日の下にさらされた事実

南アフリカ戦後のアンリ(左)とリベリー(右)。フランスはグループリーグ最下位で大会を去った 【ロイター】

 ここ4年、ピッチ上で結果を出せないにもかかわらず、才能ある集団と自負し続けていたフランス代表の化けの皮は、荒々しくはがされた。国際舞台で活躍できるだけの技術的、精神的能力を欠いていた“レ・ブルー”(フランス代表の愛称)は、ピッチの外でのおろかな振る舞いで恥の上塗りをし、文字通り「崩壊」したのである。
 大会前からフランス国内の期待は低かったとはいえ、ここまで落ちるとは誰が想像しただろうか。元オセールの名物監督で、今回テレビの現地リポーターを務めたギ・ルーは、初戦のウルグアイ戦(0−0)後、「大会前の6カ月間いいプレーができなかったチームが、ワールドカップ(W杯)になったからといって突然いいプレーができるわけがない」と言ったが、皆がそう言いたい口をつぐんでいたのは、2006年ドイツ大会のことがあったからだった。

 しかし今にして思えば、06年大会は、ジネディーン・ジダンという非凡な男によって起こされた奇跡であった。ユーロ(欧州選手権)2008ですでに見えていた事実が、白日の下にさらされた。そして、奇跡は2度起こらない。強化試合の際に「これは強化試合に過ぎない」と言い続け、事実から目をそらしていたレイモン・ドメネク監督、選手たちに真実を直視させるには、落ちるところまで落ちる必要があったわけである。
 メキシコ戦のハーフタイムに起きた、監督に対するアネルカの暴言、その結果として起きた彼の強制送還、この決断に抗議するための選手たちの練習ボイコットと、ピッチ外の醜聞ばかりがメディアを騒がせたフランスだが、ここではできるだけピッチ上での不協和音に関連したことのみに目を向け、崩壊の理由を分析していきたい。

致命的なまでに欠けていたチームワーク

 W杯に限らず大きな大会で、チームワークのない代表が成功を収めることはない。フランク・リベリー、ジェレミー・トゥラランら選手の多くが、「われわれはみんな自分のためにプレーしていた。互いが互いのために働くことができていなかった」とついに認めた通り、フランスはあらゆる意味でチームとしてプレーできていなかった。守備ではセンターとサイドの協力体制が見られず、攻撃に関してもリベリーやフローラン・マルーダの突撃はあるが、ほぼ決まって単独で、一緒に動いてそこに絡む選手がいない。効果的なワンツー、3人以上の息の合った連係も少ない。それゆえ選手が各自でバラバラにプレーしている印象を与えた。ユーロ08から少なくとも2年、06年W杯以後から数えれば4年も一緒にプレーしているというのに、いったいなぜなのか? その原因としていくつかの点が挙げられる。

 まずは、度重なるシステムや戦略、選手の変更で、1つの方向性にのっとった試運転ができていなかったということ。この問題に関しては、監督ドメネクに、戦略センスのみならず、確固たる方針がなかった、という根本的なさい配能力不足が元凶となっている。「占星術で布陣を決める」と、かつて冗談のように言われていたが、自分の考えやポリシーがあれば占星術を持ち出す必要はない。今になって思えば、これが彼の方針と決断力のなさを浮き彫りにしていたのだ。

 W杯の準備のため2年という時間があったにもかかわらず、ドメネクは最後の最後まで、基本布陣を固めることができなかった。欧州予選では、ヨアン・グルクフ不在なら4−4−2、いる場合はリベリーを右ウイング、アンリを左ウイング、グルクフをトップ下に入れた4−2−3−1を採用し、後者がベスト布陣として定着したかに見えていたのだが、ドメネクは大会前の強化試合で急きょシステムを4−3−3に変更。ラサナ・ディアラの欠場も心変わりのきっかけの1つであろうが、それ以上に「左サイドでプレーしたい」と駄々をこねていたリベリーのポジションが関係している。

 リベリーの願いをかなえるため、ドメネクはチェルシーで絶好調だった左サイドのマルーダを同サイドの1列下げた位置に据え、攻守における役割を求めた。これにより、スピードある左サイドとは反対に、右は30歳を過ぎたゴブーと、初招集のバルブエナという、本来なら控えとなるであろうの選手のみになってしまった。左右のアンバランスは一目瞭然(りょうぜん)で、実際、両サイドで脅威を与えるために「リベリーは右に行くべき」という声が外部から多数挙がっていた。
 そもそも、監督がいちいち選手の希望をのんでいたら、チーム構成など不可能だ。しかし、ドメネクは結果的に、チームのボス格であるリベリーのご機嫌を取る道を選んだのである。

リベリーの“グルクフ・バッシング”

 そして、そこで浮かび上がってくるのが、ここ数カ月うわさされていた、中心選手の一部のエゴとそれに伴う内部摩擦だった。06年は試合に出られるだけで幸せで、右サイドに新風を吹き込んだリベリーだが、ここ数年のステータスの上昇で、どうやら謙虚さを失ってしまったらしい。グルクフがどうしても気に触る様子のリベリーが、アネルカらチームの大物格の選手とともに、練習などでグルクフを無視したり、ことにつけ陰険な態度をとっているという話は、キャンプ中から再三報じられていた。非常に内気なグルクフは抵抗も何もせず、気詰まりな様子でリベリーと目を合わせるのを避けているだけだという。

 仏『レキップ』紙は、グルクフが代表に招集されて以来、メディアの注目を集め、「ジダンの跡継ぎ」などと言われるようになったこと、あるいはその端正な容ぼうに、リベリーが嫉妬心を抱いていたのでは、と推測している。貧しい地区出身のたたき上げで、性格的に豪快なリベリーと、極端に内気で自分から仲間に近寄っていかず、有名な監督を父に持つ育ちのいいグルクフは、確かにあまり馬が合いそうにない。しかしそれと、ピッチ上の協力体制は別のことだ。キャンプを通してその様子を観察していたメディアは、リベリーを「カイド(親分、首領の意)」と呼び、不良グループの首領のような振る舞いと、学校のいじめにも似た“グルクフ・バッシング”を非難していた。

 同紙はまた「クニシャの陰謀」というタイトルで、この大物を気取る派閥が、メキシコ戦の前に「グルクフの首を要求した」と書いている。第1戦後、今度はこれまで我慢していたマルーダが左ウイングでプレーしたいと心中を明かし、ウルグアイ戦で攻撃が機能しなかったこともあって、ドメネクはシステムの変更を強いられた。最もシンプルな方法は、リベリーを右サイドに移すことだったが、チームの“大物選手”が監督にグルクフの除外を要求したというのだ。

 こうしてメキシコ戦では、リベリーが中央のプレーメーカーを務め、グルクフはベンチ送りとなる。しかし結果はご覧の通り、0−2の完敗。センターに入ったリベリーは、ウイングでのようにスピードを生かすことができず、パスを配分できるわけでもなく、強引なドリブル突破を試みてはボールを奪われた。完全な失敗である。

 確かにシーズン終盤からグルクフは調子を落とし、強化試合でもウルグアイ戦でも目立った活躍はしていなかった。ミドルシュートは正確さを欠き、欧州予選で見せたひらめきも欠けていた。それでもグルクフは常に献身的に走り回り、チームメートを生かそうとプレーしていた数少ない選手の1人だったのだ。ウルグアイ戦ではゴールの左上を突くFKで、この試合2度しかなかった決定機を演出した。その彼が、メキシコ戦で0−2とリードされてもウオームアップすらしなかったのである。

 ドメネクが、リベリーの言うことを聞きましたと告白したわけではないので、真相のほどは定かではないが、火のないところに煙は立たない。もし監督がボス格の選手の主張に影響されていたとしたら、それは負けよりも重大な問題だ。ドメネクはユーロ08以降すっかり権威を失い、口では大きなことを言いながら選手に対する支配力を失っていた。ドメネクはスター選手たちにとって“都合のいい監督”であり、選手たちの多くはドメネクへの敬意を欠いていたのだ。それは、窮地に追い込まれ、神経が高ぶっていたメキシコ戦のハーフタイムに起きた、アネルカの暴言に映し出されている。

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著者プロフィール

東京生まれ、湘南育ち、南仏在住。1986年、フェリス女学院大学国文科卒業後、雑誌社でスポーツ専門の取材記者として働き始め、95年にオーストラリア・シドニー支局に赴任。この年から、毎夏はるばるイタリアやイングランドに出向き、オーストラリア仕込みのイタリア語とオージー英語を使って、サッカー選手のインタビューを始める。遠方から欧州サッカーを担当し続けた後、2003年に同社ヨーロッパ通信員となり、文学以外でフランスに興味がなかったもののフランスへ。マルセイユの試合にはもれなく足を運び取材している。

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