北朝鮮、44年目ぶりのアピール=宇都宮徹壱の日々是世界杯2010(6月15日@ヨハネスブルク)

宇都宮徹壱

W杯は変わっても北朝鮮は変わらない?

ブルームフォンテーンからヨハネスブルクへ移動する車中から見えた風景。高地ゆえに雲が低く感じられる 【宇都宮徹壱】

 日本がカメルーンを破った歴史的勝利から一夜明けて、私たちのグループはブルームフォンテーンから再び陸路、ヨハネスブルクに戻ることになった。宿を出て朝の外気に触れると、あまりの冷たさに寝不足気味の頭が一瞬でシャキッとなる。蒸し暑い日本からは想像もつかないだろうが、南半球は今が冬。ジャングルとサバンナと砂漠のイメージが強いアフリカでも、赤道を越えれば普通に冬は寒い。ワールドカップ(W杯)といえば、何となく「夏の大会」というイメージが強いが、今回の南アフリカ大会は1978年のアルゼンチン大会以来の「冬の大会」である。この日、ヨハネスブルクのエリスパークでは、20時30分からブラジル対北朝鮮の試合が行われることになっていた。大会5日目で初めて経験する冬の夜のゲームは、間違いなく寒さとの戦いになりそうである。

 ポルトガル、コートジボワール、ブラジル、そして北朝鮮。「3強1弱」の構図が明確なグループGにおいて、このブラジル対北朝鮮ほど興味深く、そして不思議なカードもないだろう。最新のFIFA(国際サッカー連盟)ランキングでは、ブラジルが1位、北朝鮮は105位。これほど差のある対戦は、本来ならばW杯で実現することはなかったはずだ。加えてブラジルは5回の優勝経験を持ち、過去18大会にいずれも出場している、誰もが認めるサッカー大国。それに対して北朝鮮は、1966年のイングランド大会以来、実に44年ぶりの出場である。その66年大会では、イタリアに1−0で競り勝ってアジア勢としては初のベスト8進出を果たし、準々決勝でもエウゼビオ(この大会の得点王)を擁するポルトガルをあと一歩まで追い詰める躍進ぶりを見せた。にもかかわらず、その栄光は政治的な理由もあって、やがて歴史のかなたへと追いやられてしまう。

 それから実に44年の時を経て、再び北朝鮮はW杯の舞台に帰ってきた。その間、国際情勢が大きく変化したように、W杯という大会もまた大きく変わった。出場チームは16カ国から32カ国へ。アジアからの出場枠は0.5から4.5へ(66年大会はアジアとアフリカで1枠だったため、多くの国々が予選をボイコットしている)。大会をめぐる規模も、それにまつわるビジネスも、そしてメディアを通しての影響力も、またしかり。ところが「朝鮮民主主義人民共和国」という国家自体は、当時も今もあまり変わっていないように思えてならない。その是非はともかく、かつて世界を驚かせた「千里馬(チョルリマ)」サッカーが、44年の時を超えて南アの地で見られることに、ある種の感慨を覚えるのは決して私だけではないだろう。余談ながら、私自身はイングランド大会があった66年の生まれであり、その意味でも今大会の北朝鮮には、大いに期するものがあった。

王者ブラジルに一矢報いた北朝鮮

ドリブル突破を見せる北朝鮮代表のチョン・テセ 【ロイター】

 参加32カ国の中でのトップとボトムの対戦は、気温3度の寒さの中でキックオフを迎えた。ブラジルはトップ下のカカを攻撃の中心に据えた4−2−3−1。対する北朝鮮は、5−3−2という極めてディフェンシブな布陣。この日のスタメンには、川崎フロンターレのチョン・テセ、そして大宮アルディージャのアン・ヨンハという2人のJリーガーが含まれていたこともあり、日本の記者は私も含めて、ドゥンガ監督(この人も元Jリーガーなのだが)が率いるブラジルよりも、むしろ北朝鮮の方に肩入れした。

 試合は、当初の予想通りブラジルのペースで進んだ。おそらく彼らは、コートジボワールやポルトガルとの対戦を念頭に置きながら、格下の北朝鮮には7割くらいのパワーで勝利することを考えていたのだろう。実際、前半のブラジルに「王国」としての美しさは見られても、その根底を成すすごみや必死さはまるで感じられなかった。だからこそ、北朝鮮の赤い守備ブロックは(少なくとも前半は)相手の猛攻を防ぐことができたのだと思う。だが後半に入るとブラジルは、いよいよ本領を発揮。後半10分にマイコンが角度のない右サイドからネットを突き刺し、27分にはエラーノがロビーニョからのスルーパスをダイレクトで決めて、やすやすと試合の行方を決めてしまう。もっともスタンドの観客は、それ以上のスペクタクルを求めていたようだ。あまりにも堅実すぎるドゥンガ監督のサッカーに軽い失望を感じた人々は、2点目が決まったと同時に帰り支度を始める。

 劇的な瞬間が訪れたのは、まさにそうした時間帯であった。後半44分、北朝鮮はカウンターから左サイドに開いたチョン・テセが頭で落とし、このボールをチ・ユンナムが持ち込んで左足を思い切り振り抜いて、ブラジルGKジュリオ・セーザルが守るゴールを突き破る。北朝鮮にとっては、実に44年ぶりのW杯ゴール。だが、スタンドの歓喜は極めて限定的であった。無理もない、北朝鮮のサポーターはほぼ皆無であったからだ。もちろん、いわゆる「美女軍団」も南アには来ていない。そんなわけで、このゴールに色めきたったのは記者席にいた、日本と韓国のメディア関係者であった。やがてタイムアップのホイッスルが鳴ると、すでにまばらになっていたスタンドからは、勝者ブラジルはもちろんのこと、彼らにひと泡吹かせた北朝鮮に対しても温かい拍手が送られた。

日本人の共感を呼んだチョン・テセのプレー

エリスパーク周辺でブラジル国旗を売る男。北朝鮮の国旗はニーズがないのか、見かけることはなかった 【宇都宮徹壱】

 試合後、極寒の記者席からプレセンターに難を逃れた日本の記者たちは、誰ともなく北朝鮮について「残念だったね」と語り合っていた。ツイッターのタイムラインでも、多くの日本のサッカーファンが北朝鮮に声援を送り、その健闘ぶりをたたえていたことが確認できる。今から5年前の05年に、日本と北朝鮮によるW杯アジア最終予選を取材したひとりとしては、何とも言えぬ隔世の感を覚えずにはいられない。当時、北朝鮮の拉致問題や核開発疑惑など、日朝間の政治的緊張はピークに達しており、両国の対戦はスポーツの次元をはるかに超えた「政治的問題」にまで発展していた。そうでなくとも歴史的に日朝は、日韓とはまた違った歴史的葛藤が続いており、サッカーの世界においても全日本のファンが北朝鮮を応援することなど、まずあり得ない話であった

 残念ながら拉致や核開発の問題は、今も解決の糸口さえ見えない状況が続いている。それでもスポーツの分野において、日朝関係に驚くほどの改善が見られるようになったのは、アン・ヨンハやチョン・テセといった在日Jリーガーの存在を抜きに語ることなどできないはずだ。とりわけ、44年ぶりのゴールを演出したテセについては、試合前の国歌斉唱で感極まって涙を流したことや、流血するほどのアクシデントにも負けずに闘争心あふれるプレーを続けたこと、さらに試合後には精魂尽きてピッチに倒れこんだことなど、文字通り「血と汗と涙」を流しながらファイトする姿勢が、多くの日本人の心を揺さぶることとなったのは間違いないだろう。今大会の北朝鮮代表は、44年前のチーム以上に世界にアピールする力を持ったチームなのかもしれない。そしてその中心に、現役Jリーガーがいるという事実を、私たちはもっと世界に誇ってよいのではないだろうか。

<この項、了>
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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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