小さな魔法使い

 なぜ彼なのか? アルゼンチンには若く優秀なプレーメーカーがいる。それなのに、マラドーナ監督はファン・セバスティアン・ベロンをアンカーマンとして信頼してきた。“小さな魔法使い”だから?

 ベロンを「過去から来た選手」という人々もいる。3月で35歳になったからではなく、そのプレースタイルゆえだ。ボールを正しく運用できるベロンは、古典的なプレーメーカーだ。しかし、今日ではこのタイプの選手は非常に少なく、トップレベルのフットボールにはほとんど存在しないと言っていい。ベロンがワールドカップ(W杯)でプレーしたのも、2002年大会が最後である。その時は予選の好成績から優勝候補にも挙げられていたが、イングランド、スウェーデンに敗れてグループリーグすら通過できなかった。

 09年、マラドーナ監督とファン・ロマン・リケルメに確執が生じた。リケルメは招集を拒否し、ベロンにチャンスが巡ってきた。ベロンはリケルメと似たタイプで、多少才能の面では劣っているように見えるが、リケルメの後釜に収まった。「ベロンはわたしにとってのシャビだ。周囲にスペースを与えられる」と、マラドーナの信頼は揺るがない。マラドーナとベロンはかつてのチームメートでもある。96年にベロンがエストゥディアンテスからボカ・ジュニアーズに移籍した時、ちょうどマラドーナが15カ月の出場停止が開けてボカでプレーを再開している。

 当時のボカには強力なメンバーがいた。クラウディオ・カニージャ、フェルナンド・カセレス、ネストール・ファブリ、キリ・ゴンサレスは国民的な英雄であるマラドーナのそばでプレーし、多くのことを学んでいる。ベロンは「わたしのキャリアでも最高の経験だった。マラドーナのすぐそばでプレーし、彼の言葉を聞き、怒りを感じ、助けをもらった。計り知れない有意義な経験だった」と振り返る。
 マラドーナは「ベロンは代えの利かない選手で、ピッチ上の監督だ。なぜなら彼は最上のアルゼンチンフットボールを知っているからだ。ベロンは味方に大きな声を出して士気を奮い立たせることができる」と語る。
 リオネル・メッシが唯一、心から敬服している人物がベロンだと言われている。07年にベネズエラで行われたコパ・アメリカ(南米選手権)以来の関係だが、メッシはベロンの言うことだけは聞くらしい。
 これはうわさだが、メッシが携帯電話へかかってくるコールの中で、ベロンからのだけはすぐに応答するという。つまり、マラドーナからのコールには即答しなくても、ベロンからの電話には必ず出るというのだ。

 また、インテルのハビエル・サネッティとエステバン・カンビアッソがW杯・南アフリカ大会メンバーの23人から外れたのは、かつてインテルでチームメートだったベロンといさかいがあったからだといううわさもある。ラツィオでベロンとプレーした元アルゼンチン代表のディエゴ・シメオネは、「ディエゴ(マラドーナ)が誰かの思惑を入れて、2人を外したとは思えない」と言いながら、「確信はない」とも付け加えている。

 ベロンが国内でプレーしている点は見逃せない。彼は舞い戻ってきた英雄だ。メッシは子供時代を除けばアルゼンチンではプレーしておらず、アルゼンチンの象徴となるのは、むしろベロンの方なのだ。10年間、ヨーロッパのクラブ(サンプドリア、パルマ、ラツィオ、マンチェスター・ユナイテッド=マンU、チェルシー、インテル)でプレーした後、ベロンは父親もプレーした故郷のエストゥディアンテスに戻ってきた。
 ベロンの母親によると、75年3月9日にファン・ラモン(ベロンの父親)がライバルのヒムナシア戦でゴールを決めた時にベロンを出産したという。そして、31年後にはその息子がヒムナシアを7−0でたたきのめした。メッシはこの手の伝説を持っていない。

 ベロンの代表復帰はマラドーナとの友情だけが要因ではない。ヨーロッパでの最後の数シーズン、とくにイングランドでは輝きを失ったかに見えたが、アルゼンチンに戻るとフォームを取り戻し、09年のリベルタドーレスカップ優勝の原動力となった。08、09年は連続で南米年間最優秀選手にも選出されている。
 ラツィオからマンUへの移籍では、イングランドで最高の2810万ポンド(約50億円=当時)もの移籍金が動いた。ところが、プレミアのスピードについていけず、チェルシーではいい時もあったが、全体的には持ち味を発揮できなかった。さらに、イタリアのパスポートを手にした時の書類が偽造だったことが問題になり、代理人は禁固15カ月を言い渡されてベロンは母国へ戻っている。

 偽のイタリア人、本物の生き残り、マラドーナの親友、そしてメッシを操縦できる男……。アルゼンチンの勝利のためには、これだけでは不足だろうか?

<了>
  • 前へ
  • 1
  • 次へ

1/1ページ

著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント