翻ろうされたコートジボワール代表=エリクソン新監督任命の背景

木村かや子

W杯3カ月前に監督を解任

アフリカ選手権でベスト8に終わったコートジボワール。この後、ハリルホジッチ監督は解任された 【Photo:AP/アフロ】

 長いことさまよった末に、ついにコートジボワール代表監督が、スベン・ゴラン・エリクソンに決まった。この元イングランド代表監督の名は、前指揮官が解雇された直後から候補に名を連ねていたのだが、その当時、本人はあまり興味を示していないと伝えられていたのだ。しかし、後任候補の筆頭だったフース・ヒディンクが申し出を断ってから、その名が再浮上。監督解任劇から1カ月が経った3月28日夜半、エリクソンの監督就任は、コートジボワールの国営テレビで大々的に発表された。

“エレファンツ”(コートジボワール代表)の監督はなぜなかなか決まらなかったのか――。それを語る前に、まず、なぜ前監督バヒド・ハリルホジッチがワールドカップ(W杯)を3カ月後に控えた2月28日、突然解雇されるに至ったのかについて説明する必要がある。
 ディディエ・ドログバ、サロモン・カルー(共にチェルシー)ら欧州トップクラブで活躍するスター選手、また現在リールでゴールを量産しているジェルビーニョといった新進気鋭の選手も擁するコートジボワールは、アフリカ最強の代表と誉れ高い。当然のように、今年1月のアフリカ・ネーションズカップ(アフリカ選手権)で優勝が期待されていたのだが、彼らは準々決勝でアルジェリアに敗れてベスト8で敗退。これが、監督交代劇の引き金を引いた。

 とはいえ、パリ・サンジェルマンなどを率いたことで知られるハリルホジッチは、監督に就任して以来、アルジェリアに敗れるまで23試合負けなしの好成績を誇り、コートジボワール史上最高の監督とたたえられていた。つまり、このアフリカ選手権での黒星は、彼が指揮した24試合で初めての敗戦だったのだ。W杯が間近に迫っている時に、たった1つの黒星で解雇――常識に照らせばかなり無謀に思えるこの決断の裏には、政治的問題が絡んでいたと言われる。

「コートジボワール代表の目標は、アフリカ選手権優勝だった。政治家たちはわれわれにプレッシャーをかけ始めていた」。ハリルホジッチは解雇の直後、いら立ちを隠せない様子でこう説明した。
「何としてでも優勝しなければならない、というのが大統領からのメッセージだった。わたしには、なぜ解雇されたのか本当の意味で理解できないが、彼らは誰かを生贄(いけにえ)にしなければならず、血祭りに挙げられたのが監督だったんだ」

大統領選挙がサッカー人事に与えた影響

 この不可解な行為の理由を知るには、アフリカの政府とサッカーの関係を知っておかなければならない。元カメルーン代表のパトリック・エムボマが、一度こう説明したことがある。
「代表の成績は、選挙にも大きな影響を与える。例えば、カメルーンがアフリカ選手権で優勝したり、W杯でいい成績を挙げれば、現政府や首相が次の選挙で再選される可能性はぐっと高くなるのさ。だから代表の成績は、政府にとって非常に重要なものなんだ」

 コートジボワールの大統領選挙は、通常5年に一度行われ、現大統領が勝利を収めたのは2000年。ところが05年に行われるはずだった選挙が、さまざまな理由から延びに延びて現在に至っているという背景がある。07年、それから08年だと言いつつ何度も延期された後、今度は10年、つまり今年の実施が予定されているのだ。選挙の後延ばしは現政府が苦戦を予想している証拠であり、そのため、現政府と大統領にとってアフリカ選手権での代表の成績は、この上なく重要な要素だった。

 そんな政治的緊迫感の中で代表が期待外れの成績に終わり、国民の怒りが爆発する中、政府は国民の支持と自分たちの覇権を守るために、大々的な手を打つ必要に迫られた。こうして、プレッシャー下に置かれたサッカー協会会長ジャック・アヌマは、自分の首を守るため、ハリルホジッチを生贄とすることを決めるのである。スポーツ面のことだけを考えれば、アフリカ選手権の1敗を事故ととり、迫るW杯を考慮して続投させた方が賢明だったはず。前監督自身が主張したように、彼は政治的思惑のとばっちりを受けたと見て間違いない。

当初は興味を示していたヒディンクだが……

 次になかなか後任監督が決まらなかった理由は、単に、協会が目星をつけた候補にことごとく断れたからだった。アフリカの状況に詳しい『フランス・フットボール』誌のパスカル・フェレ氏によれば、会長は最初、簡単に代わりを見つけられると高をくくっていたらしい。国民を納得させるためには、後任監督はビッグネームでなければならない。誰をも納得させる候補は、言うまでもなくヒディンクだった。

 W杯までの準備期間はわずか3カ月。短期間で成果を出す手腕においては、勝負師ヒディンクの右に出る者はいない。ほとんどの監督にとって、この時間不足は大きな問題であり、実際、やはり打診されていたアヤックスやマルセイユなどの監督だったエリック・ゲレツも、準備期間があまりに短いことを理由にオファーを断っていた。
 ゲレツは選手をよく知り、時間をかけてチームを育てていくのを好む監督だが、その点ヒディンクは、スコラーリを解雇したチェルシーにシーズン半ばを過ぎた2月に呼び寄せられ、わずか3カ月の間にチームを立て直した実績を持つ男だ。ロシア協会との契約は6月末に切れ、8月からトルコ代表監督となることが決まっていたヒディンクだが、ロシアがW杯行きを逃したため、5月末からW杯期間中の2カ月弱、ヒディンクは理論的にはフリーになれるはずだった。

 この時点でヒディンクの代理人は、ロシア協会との残りの契約期間が障害となっていると発言し、予防線を張っていたが、本人は当初、この職に明らかな興味を示していた。昨季のチェルシーで、ヒディンクのおかげもあり見事復活を遂げたドログバは、この指揮官に絶大な信頼を寄せている。そのため、ドログバは自らヒディンクに電話をかけ、選手代表として「コートジボワールを救ってくれ」と嘆願した。ドログバの証言によれば、ヒディンクはその際、監督となった場合には、やや心もとないディフェンスを脅威にさらす度合いを減らすために、中盤を強化したいと考えていることを明かしたという。

 一時、監督就任決定の誤報さえ出るほど確実視され、実際このように具体的構想すら練っていたヒディンクだったが、3月13日に突如、ヒディンクがオファーを断ったというニュースが流れるのである。公表された理由はロシアとの契約だったが、舞台裏をよく知る前述の『フランス・フットボール』誌のフェレ氏は、本当の理由はコートジボワールがヒディンクの要求する額の給料を用意することができなかったためだと信じていた。
 さまざまなクラブや代表に呼ばれてはその都度、時に魔法がかった結果を出しているヒディンクが、大きな敬意を受ける監督であることは間違いない。しかしその反面、彼についてよく使われるのが、「金次第」「報酬目当ての傭兵(ようへい)」という表現。つまり、ヒディンクの助けを借りたければ、それ相当の報酬を払えるようでなければならないということだ。

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著者プロフィール

東京生まれ、湘南育ち、南仏在住。1986年、フェリス女学院大学国文科卒業後、雑誌社でスポーツ専門の取材記者として働き始め、95年にオーストラリア・シドニー支局に赴任。この年から、毎夏はるばるイタリアやイングランドに出向き、オーストラリア仕込みのイタリア語とオージー英語を使って、サッカー選手のインタビューを始める。遠方から欧州サッカーを担当し続けた後、2003年に同社ヨーロッパ通信員となり、文学以外でフランスに興味がなかったもののフランスへ。マルセイユの試合にはもれなく足を運び取材している。

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