藤原正和が初V 不遇時代からの復活劇=東京マラソン・総括

加藤康博

マラソン3度目で初優勝を果たした藤原正。7年間の不遇の時代を経て勝ち取った結果だった 【写真は共同】

 スタート時の天候は雨、気温5度という悪条件でスタートした東京マラソン2010。レースの経過とともにさらに気温は下がり、途中みぞれまで落ちる悪条件の中、日本人選手が入れ替わり先頭に立ち、激しいトップ争いを繰り広げた。そして結末は長く雌伏(しふく)していた実力者が、復活をアピールする鮮やかなスパート劇で幕を閉じた。

藤原正「40キロ地点で勝負と決めていた」

 最初の5キロこそ15分11秒で通過したが、その後は気温の低下もあり、ペースは15キロから20キロには15分52秒まで下がる。マラソン初優勝を狙う佐藤敦之(中国電力)、08年の同大会で2位に入っている藤原新(JR東日本)らは集団に身をひそめて展開をうかがう。先頭集団トップの20キロの通過が1時間1分41秒、そして中間点を1時間5分11秒で通過と記録への期待が薄れていく中、最初にレースが動いたのは28キロ。一般参加のベテラン澁谷明憲(柳河精機)がペースを上げ、集団を揺さぶりにかかった。佐藤、さらには前回の優勝者、サリム・キプサング(ケニア)がコースを左へ右へとその姿を動かし、先頭を引っ張った。しかしどちらも抜け出るには至らない。

 そこで動いたのは藤原正和(Honda)だった。33キロ付近で、一度、前に出て集団トップの佐藤に2メートルほどの差をつける。「集団の人数が多すぎたから、少し振り落とそうと思ったんです。しかし2人くらいしか落ちないから、また集団に戻りました」。その後、35キロ地点までで集団は9人にまで淘汰(とうた)されるものの、主導権を握るものは現れず、ラストスパートで勝負が決まる気配が濃厚になってきた。「最後の勝負になるのは分かっていました。しかし自分が両足のふくらはぎあたりがつりそうになっていたので、自分からは仕掛けられなかったです」(藤原新)、「自分の中では残り1キロで前に出るつもりでした」(佐藤)。日本人の優勝候補2人の思いを見透かしていたかのように、藤原正は40キロ地点から再度スパート。「ここで勝負と最初から決めていました」とこの1キロを2分52秒で駆け抜け、足の不安を抱えていた藤原新、「先に仕掛けられてしまった」という佐藤との差を徐々に広げていく。2人の猛追も及ばず、藤原正がそのまま歓喜のフィニッシュテープへと飛び込んだ。2位争いは藤原新と佐藤のスパート合戦となったが、最後、藤原新が抜け出し2度目の2位に入った。
「35キロから40キロは抑えて、そこから勝負に出たのは予定通り。佐藤選手は一番勝負に絡んでくる選手としてマークしていましたが、後ろから見ていて動きが良くなかったのは分かりました」と藤原正は振り返る。一方、佐藤は「情けない。先に仕掛けられた時は追おうと思いましたが、足に(疲労が)きていて動かなかったです」と悲願のマラソン初優勝を逃し、悔しさに唇をかんだ。

華々しい学生時代 一転、実業団入り後の苦しい日々

 藤原正のキャリアは学生時代から華々しい。中大3年時にはユニバーシアード北京大会ハーフマラソンで優勝。そして4年時では03年びわこ毎日マラソンで3位ながら、学生新記録となる2時間8分12秒を樹立した。この記録は初マラソン日本最高記録として今も残る。しかし実業団のHondaに進んでからはケガに苦しみ、03年世界選手権パリ大会も膝(ひざ)のケガで現地入りしてから欠場を決めた。その後も、焦る気持ちと体はかみ合わず05年にはオーバートレーニングから肝機能低下を引き起こし、まったく練習できない時期もあった。高い実力を持ちながらも、試合での結果につながらない日々。
 きっかけは、08年のびわ湖毎日マラソンで9位ながらマラソンへの調整方法をつかんでからだった。練習で無理して、故障に陥る悪循環からも脱却し、昨年夏ごろから調子は上向きはじめる。万全の仕上がりで臨んだこの大会だった。「学生の時は深く考えず、勢いで走っていましたが、今はセルフコントロールの面で成長できました。03年のびわ湖から今まで長い時間でしたが、自分には必要な道だった」と、苦しんだこの7年が糧になっていることを強調した。

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著者プロフィール

スポーツライター。「スポーツの周辺にある物事や人」までを執筆対象としている。コピーライターとして広告作成やブランディングも手がける。著書に『消えたダービーマッチ』(コスミック出版)

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