黒子が語るオシムとの日々(後編)=千田善氏(イビチャ・オシム前日本代表監督通訳)インタビュー

宇都宮徹壱

退院したオシム氏は、JFAのアドバイザーに就任するまでに回復した 【宇都宮徹壱】

「オシムの伝言」(みすず書房)著者であり、前日本代表監督イビチャ・オシムの専任通訳を務めた千田善さんにお話しを伺う後編。今回はオシムが脳梗塞で倒れてからの日々について語っていただいた。これまで数多くの「オシム本」が世に出ているが、闘病とリハビリの日々についてこれほど克明に描かれたのは、おそらく本書が初めてであろう。何しろ千田さんは、家族も入れないような集中治療室にも立ち会い、闘病から復活までのプロセスをずっと間近で見守り続けていたのである。急報を聞き「今夜は帰れないかも」と言い残して家を出てから、実に1カ月半。それは、代表チームの通訳とはまったく異なる濃密な日々であった。(取材日:1月19日 インタビュアー:宇都宮徹壱)

闘病中につけていたノート

――いよいよオシムさんが倒れてから回復するお話を伺いたいのですが。倒れたのが07年11月16日のことでしたね

 それから意識を取り戻すまで、10日くらいあったんです。この間、その時につけていたノートを見ていたら、11月26日の午後3時ごろ、CTの検査に移動するためにICU(集中治療室)から出て車付きのベッドを押しながら移動するわけだけど、そのためにいろいろなセンサーを移動式のものに替えるわけですよ。そうしている間に看護師さんが脈を測るんですが、その時に目を開けた。家族もいない状態で、僕だけがいたんですが。その時のメモにはそう書いてありました。

――闘病中、かなり綿密にノートをつけていたようですが、これは生来のジャーナリスト魂がそうさせたんでしょうか?

「ジャーナリスト魂」というのではないと思う。本当に忙しいときには抜けていて、例えばオシムさんが「試合」と言ったのが(11月)27日か28日か分からないとか、そういうスポっと抜けているところもあったので綿密ではないんだけれど、なるべくノートをつけようとは思っていました。だから「ジャーナリスト魂」ではなくて、癖ですね。

――千田さんがどんなノートをつけていたのか、非常に興味がありますが

 僕は取材にいくたびに、新しいノートをつけるんです。最初のページを空けておいて、目次が書けるようにしておく取材ノートが、もう何10冊も付けているんだけど、それと同じようなものをつけていた。最初のころは、Jリーグのリザルトの裏に医者が何を言ったのかを書いたりしていたんですけど、これは長期戦になるということでノートを買って、日記ではないんだけど、その日何があったかを自然につけるようになりました。ただ、あとで発表するときに役立てようとは、その時には考えていないです。だって死ぬか生きるか、ですから。

――結局のところ、オシムさんが倒れた原因というのは、何だったのでしょう?

 脳梗塞というものが、どういう人がなるのかということについては、一般的にいろいろ言われているわけですけど、起こるきっかけとか起こり方とか後遺症のタイプとかは、本当にひとりひとりが違うわけです。だから「この人がどこまで治る」というのは予想もできないし、治るかどうかも分からない。もちろん、本人が肥満気味だったとか、いろいろな要因があったことに加えてストレスがあったんでしょう。でも「これをやらなければ倒れなかったでしょう」というのは、分からなかったと思います。少なくとも、今の医学では100パーセント防ぐ方法というものはない。

家族への励ましとメディアへの発表

オシムの闘病中、リハビリ中を振り返る千田氏 【スポーツナビ】

――あの時は、日本中が大騒ぎになっていましたが、情報は入ってきていましたか?

 新聞はなかったです。テレビはICUから出て(オシムさんの)家族と話しているときに、テレビで見ることはできた。川淵さん(三郎=当時JFA会長)が泣いた会見もテレビで見ていました。生中継ではなかったと思いますが。でもこっちは無我夢中で「この人を助けなきゃ」という思いでしたね。もちろん、僕は医者ではないですから、医者の仕事をヘルプすることしかできませんでしたけど。ヤマ場と言われた72時間は、奥さんとアマルさん、それからすぐに駆け付けた娘さんをケアすることに専念していましたね。娘さんと入れ替わりで、二男が来ましたが。とにかく家族を励ますことが中心でした。

――励ます、というのは具体的には?

 とにかく、一緒にいてやるということ。何かを言ったら、それをよく聞いてあげること。コメントできることについては話しましたけど。その後、僕の家族がパソコンを持ってきてくれてネットがつながるようになってからは、この病気について医療措置とか薬とか僕なりに調べて、それを教えたりとかね、そういうことはしました。

――その一方で千田さんには、メディアへの発表というお仕事もありましたね

 そうですね。僕がメモを書いて、それが非公式の発表文書になって、協会からリリースされるということになりましたね。あの現場では、病院側も協会側も、いわゆるライターというか、文章をぱっとまとめて、あとから後悔しないような水準のものを作成できる人が、双方にいなかったんですね。たまたま僕は通訳だったけれど、事情を知り得る者として、ほかの人がうんうんうなって1枚しか書けないものを、僕は10分でぱぱっと書けてしまうということができた。それは、お医者さんがそういうことに煩わされずに治療に専念できるように、という意味でね。それを自慢するつもりはないけれど、病院側は記者会見をしない、文書は出すと言っていたけど時間がかかる。協会側も、ああした状況でマスコミが満足するようなリリースを作ることが、当時はできる状態ではなかったんですよ。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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