柏木、ヤットのような輝ける存在を目指して=若きファンタジスタの新たな挑戦

元川悦子

不完全燃焼と希望が混じったデビュー戦

イエメン戦の後半は攻守のつなぎとして仕事をまっとうしたが、得点に絡めなかったことに悔しさものぞかせた 【Photo:澤田仁典/アフロ】

 平山相太(FC東京)が1点を返し、1−2で迎えた後半、岡田監督は大胆な布陣変更に打って出た。相手に崩され続けた日本の右サイドを補強するため、槙野と菊地直哉(大分)の位置を変更。中盤は米本拓司(FC東京)の1ボランチにして、乾貴士(C大阪)と金崎夢生(名古屋)を2列目外に置き、柏木を真ん中に移した。
「陽介がどうしても中に入るので、サイドに張る選手として乾を投入した」と指揮官が説明するように、やはり柏木は真ん中でプレーした方が良さが出る。米本は守備、柏木は攻守のつなぎ、乾と金崎が外からの崩しと役割が明確になり、中盤が機能し始めた。

 後半10分には乾の突破から平山が2点目をたたき出す。20分には柏木のファーサイドへの巧みなクロスを金崎が折り返し平山が右足シュートという決定機もあった。最終的に平山が3点目を挙げ、日本が逆転勝利できたのも、柏木が司令塔として攻めの起点を作れるようになったから。「中村俊や本田の後釜」と認められるだけの強烈なインパクトは残せなかったものの、後半のみに限定すれば岡田監督の言う「中盤のリーダー」の仕事は十分果たしたと言える。

「後半はヨネの1ボランチに3シャドーという形になった。夢生と乾がガンガン仕掛けたから、おれはそこにいいパスを出して、FWも使いたかった。自分がだんだん低い位置でプレーするようになったんで監督はどう思ったか分からないけど、ヤットさんみたいなプレーをした方がいいと思った」と柏木は自分の仕事に確固たる信念を持っていた。
 ゴールに直結する仕事が少なかったことはやや物足りなさもあった。本人も試合後「もっと得点に絡むプレーをしたかったなという気持ちはある」と悔しさをのぞかせた。それでも「みんなと声を掛け合いながら、チームを引っ張っていくことはできた。自分のやるべきことを続けていくのも経験なのかな。代表で何回も出ることで自信もついてくる。そういう部分が自分には足りていない。いいプレーを続けていけば、また呼んでもらえると思う」と手応えも口にした。長年の夢だった国際Aマッチビュー戦は不完全燃焼と希望が入り混じるものになった。

さらなる成長へ、新天地・浦和での活躍を誓う

 チーム状況やメンバー構成を見ながらプレーを臨機応変に変えられるようになったところは、柏木の成長の証しだ。かつての中村俊がそうだったように、北京五輪最終予選を戦っていたころの彼は「10番タイプの自分」を前面に押し出す傾向が強かった。が、この1年半、表舞台から離れて自分自身を見つめ直したことで、黒子としてチームを支えることの重要性にあらためて気づいた。そんな変化を岡田監督も認めているはずだ。

 残念ながら、1月下旬の指宿合宿メンバーには生き残れなかったが、柏木は日本代表定着をあきらめたわけではない。
 イエメンから帰国した直後の関西空港で、彼はこんな話をしてくれた。
「岡田さんが遠征の最後に『ウサギとカメ』の話をしてくれた。おれは新しい環境に行くけど、レッズでもいいプレーをして結果を残すことは変わらない。自分のやるべきことを続けていたら、時間が掛かるかもしれないけど、いつかどこかで花開くかもしれない。ヤットさんもそうやって長い間、チャンスを待ってたんだろうからね」

 確かに柏木は、同世代の仲間に比べると多少出遅れているかもしれない。それは黄金世代の遠藤も同じだった。稲本潤一(川崎)、小笠原満男、中田浩二(共に鹿島)らの控えに甘んじる期間が長かった。それでも自然体で努力を続け、30歳近くなった今、大きくブレークした。柏木はそんな先輩の姿を頼もしく感じているようだ。

 遅咲きでもいい。遠藤のように30歳近いベテランになっても光り輝ける存在を目指して、彼は新天地・浦和の門をたたいた。茶髪のロン毛を黒い短髪に変え、心機一転、新たなスタートを切ったところだ。
「おれはサンフレッチェ育ちで、広島ではどこか甘えているところがあった。だけど浦和では事情が違う。より大きなクラブで多くの人に注目される厳しい環境に身を置いて、自分を成長させたい。ポジションはどこでも関係ない。チームのプラスになるならどこでもやる」と闘志を燃やす柏木が、ここからどんな成長を遂げるのか。
 再び日本代表に呼ばれ、定着する日はいつ来るのか。22歳のファンタジスタの今後を注意深く見守りたい。

<了>

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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