広島観音を支える「もうひとり誰かのために」=高校サッカー2回戦

中田徹

大事な人を思えばもうひと頑張りできる

 4年前と比べて、広島観音のサッカーはいくつか変化している。例えば練習回数は週3回から2回へと減った。これは週末の土日が両方試合になることが増えたためだという。「トレーニングは週2回だけど、その質は全国どこにも負けない」。そう畑監督は胸を張る。例えば、YO−YOインターミティテットリカバリーテスト(通称YO−YOテスト、速く走って休んで回復……それを繰り返すトレーニング)では、広島観音の選手たちの脈拍回数は日本代表選手のデータよりもいいという。

 また、移動のバス、アップ前の着替え、ハーフタイムには選手にビデオを見せてモチベーションを上げている。例えば山形中央戦では『ロッキー』のビデオをバスの中で見せ、アップの前にはいきものがかりの『心の花を咲かせよう』とバックミュージックに「もうひとり誰かのために」をテーマとするビデオを流した。
 そしてハーフタイムには「(県予選)決勝戦で戦った広島皆実のためにもやるんだ。おれたちだけじゃないんだぞ」というビデオをロッキーのテーマ曲入りで流した。こういったビデオを今回の選手権では15本、広島観音は用意している。もちろんそれは決勝戦、そして優勝を見越してのものだ。

 人間誰しもつらい時がある。そんなとき、自分だけでなく、大事な人を心に思えばもうひと頑張りできるもの。それが「もうひとり誰かのために」という言葉だ。山形中央戦では選手1人1人の「もうひとり誰か」の写真をずらりと並べ、「7、8人の選手が泣いてしまい、逆にメンタルが下がっちゃったんじゃないかと(苦笑)。結局(今日の試合は)それが最後に生きたんじゃないでしょうか」(畑監督)という効果を得た。柳田主将にとってそれは両親。
「僕は両親にいつもお世話になっている。特に母さんとかは朝早く起きて(用意を)やってくれたりとか、3年間朝練で迷惑をかけていた。帰るのも遅くなったりしていた。サッカーをやる上で支えになってくれた人。父と母に感謝の気持ちを込めて戦いました」

若くして亡くなった山本先輩の存在

「もうひとり誰かのために」。山本亮の存在がその言葉に深みを与える。4年前、ベスト8に進出したとき、当時3年の山本は脳腫瘍(しゅよう)にかかりながらも、両親に腕を抱えられて試合会場に応援に来ていた。彼は2006年4月27日、その短い生涯を遂げた。畑監督は言う。

「山本はただ病気と闘っただけでなく、その病気中もマネジャーとして審判をしたりボール拾いをした。頭にボールが当たったら危ないかもしれないぞ、というところでもやった。サッカーに懸けたんでしょうね。そういった山本先輩を大事にしながらというのが、全員のモチベーション。大事なところでは必ず黙とうをささげる。技術、戦術だけでなく、心のところも大事にしながらこの大会を戦っています。
 選手権ではお父さん、お母さんに肩を引きずられて見に来てくれた。これは僕も永遠に語り続けて子供たちに残していかないといけない。ビデオを作って毎年シーズン始めには山本亮の話を伝えています。
 本人には余命を告知しなかった。だから、つらい大会だった。もし知っていれば『山本のために頑張れ、命が少ないぞ』と言えた。もしかすると、本人は自分の命に気付いていたのかもしれませんが。だから4年前はそういうのを感じながらよく戦いました。心技体とよく言いますが、うちのチームはまず心を考えながらテーマとしてやっています。その後に技や体があるんだぞと」

 山本の遺影とともに広島観音イレブンは、広島勢としての2連覇に挑む。

<了>

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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