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中田久美、竹下佳江……女子バレー、名セッターの系譜
史上最年少の15歳1カ月で全日本入りを果たした中田久美。その後13年間、日本の司令塔として活躍した
史上最年少の15歳1カ月で全日本入りを果たした中田久美。その後13年間、日本の司令塔として活躍した【JunTsukida/アフロスポーツ】

 世界の強豪チームを前に、どうしても高さで劣ってしまうのが日本バレーの宿命。しかしその弱点を補うために、守備力や組織力、スピードなどを生かし、諸外国と戦ってきた。その中で試合全体を見渡し、緻密な計算で攻撃を組み立てるのが、セッターの役割。

 今回は、日本女子バレーを支えてきた名セッターを紹介する。

「東洋の魔女」のキャプテンは名セッター・河西昌枝

 1964年の東京五輪、圧倒的な強さで日本に金メダルをもたらしたのが当時の日本女子バレーチーム、通称『東洋の魔女』だ。そのチームのキャプテンであり、セッターを務めたのが河西昌枝である。

 高校卒業後、後に「東洋の魔女」と呼ばれる大日本紡績(現ユニチカ)バレーボール部、日紡貝塚に加入。日本が初めて参加した60年の世界選手権(ブラジル)では銀メダル、62年の世界選手権(ソビエト連邦)では金メダルを獲得し、輝かしい記録を残した。東京五輪の翌年となる65年に日紡を退社し結婚。3児の母となっている。2003年には日本バレーボール協会の女子強化副委員長に就任し、08年にはバレーボール殿堂入りを果たした名セッターだ。


「東洋の魔女」の次の時代、3大会ぶりに金メダルを獲得した76年のモントリオール五輪でセッターを務めたのが松田紀子だ。『ネット際の魔術師』などと呼ばれるそのプレースタイルは、正確なトスが特徴。もともとアタッカーだった松田は、実業団の日立に入ってからセッターに転向し、全日本入りを果たした。そのポジション転向を陰で支えた永木芳子には、五輪で金メダル獲得後、その感謝の気持ちを込めてメダルを半分に切ってプレゼントしたというエピソードもある。

史上最年少15歳で代表となった天才・中田久美

 80年代の日本代表を支えたのは、『天才セッター』中田久美だ。80年に史上最年少となる15歳1カ月で全日本入りを果たすと、以後13年間、日本の頭脳として活躍した。84年のロサンゼルス五輪では日本の銅メダル獲得に貢献したが、その後、右ひざの大けがで再起不能と言われた。しかし、必死のリハビリで回復し、88年ソウル、92年バルセロナと3度の五輪に出場し、バルセロナ大会では日本選手団の旗手も務めた。

 引退後はテレビのバレーボール解説者や、イタリアリーグのノバラのアシスタントコーチを務めている。


 中田久美の後を引き継ぎ、全日本のセッターを務めたのが中西千枝子。中西は85年にユニチカに入社。日本リーグでベスト6に入る活躍を見せると89年に全日本に初選出される。92年のバルセロナ五輪では、中田の控えであったが、96年のアトランタ五輪では、主将としてチームをけん引。小柄ながら抜群の運動神経を持つセッターで、引退後は00年までユニチカでコーチを務めた。07年にはVリーグ栄誉賞を獲得している。また、夫は狩野舞子や佐野優子が所属する久光製薬の濱田義弘監督。

チーム再構築の中心となった竹下佳江

 96年のアトランタ五輪には、もう一人の名セッターが活躍した。それが永富有紀だ。高校時代は大分・扇城高(現・東九州龍谷高)のライトプレイヤーとして、87年に高校タイトル三冠(春高、インターハイ、国体)を達成。卒業後は日立に入団し、その後セッターに転向した。そして93年に代表初選出となると、強気なトスを売りにチームを引っ張った。国内リーグでは95年に移籍した東洋紡オーキスで当時の日本のエース・大林素子とのコンビで得点を量産した。


 アトランタ五輪後の90年代後半には、女子バレーが低迷期を迎えたが、そこからの脱却を目指した柳本晶一監督の下、チーム再構築の中心となったのが竹下佳江(JT)だ。

 竹下は97年に代表に初選出。この年のグラチャンでは大貫美奈子の控えとして出場。その後、00年の五輪世界最終予選では、板橋恵に代わって正セッターを務めたが、日本は五輪出場権を逃がした。その責任から、一時バレーから離れる時期があったものの、03年にJTに復帰。その年から女子代表を率いた柳本監督に再召集され、代表の正セッターとして活躍。この年のワールドカップではキューバを破る快進撃を見せ、最優秀敢闘賞を受賞した。04年のアテネ五輪、08年の北京五輪と2度の五輪を経験し、今回のグラチャンでは、コーチ兼任として新生ジャパンを支える。


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