武藤敬司25周年記念 特別インタビュー最終回
武藤敬司特別インタビュー最終回。8.30両国のメーンイベントに立つ4人 【t.SAKUMA】
第1弾「プロレスラーになったきっかけ〜WCW遠征時代まで」、第2弾「闘魂三銃士〜UWFインターとの対抗戦」を経て、武藤が描く未来のビジョンは。
シャイニング・ウィザード誕生秘話
ムーンサルト、足四の字に並ぶフィニッシュホールドのシャイニング・ウィザード 【t.SAKUMA】
01年の1.28東京ドーム(全日本プロレス「王道新世紀2001〜ジャイアント馬場三回忌追悼興行〜」)に急きょ(参戦することになった)。そのとき永島のオヤジ(永島勝司)がブッカーで、「ちょっとドーム出てくんねぇか?」って言われて。で、「いいよ〜俺」って。(当時)ビッグショーばっかやってたから。
――乗り気ではなかったんですか?
乗り気じゃなかったよ。「誰とやんだよ?」(武藤)、「太陽ケアだよ」(永島)、「知らね〜よ。いいよ」(武藤)って。でも、どうしても出てくれよってなって、「分かったよ、オヤジの言うことだし」と言って出たんだよ。
――「全日本に上がれる」という感慨深さみたいなものはなかったんですか?
どことなく「得するかしないか」っていうのも考える中で、太陽ケア自体知らない中で、東京ドームというシチュエーションというところでね……そんなにオイシくも感じなかったのか何なのか。
――それで実際にケア選手と肌を合わせてみていかがでしたか?
それが素晴らしかったんだよ、太陽ケアが。「なんだコイツ? いいレスラーだな〜」って思った。そのときに俺、ドラゴンスクリューして「チッ、じれって〜な〜」なんて思って“パンッ”ってやったのがシャイニング・ウィザードなんだ。初めてだよ、そのとき。
――ひらめきだったんですか?
うん。「遅いな〜」と思って。
――遅いというのは?
立ち上がってくるのが。ドラゴン・スクリューして次に仕掛けようと思ってる中で、俺速いからさ、動きが。それで(頭が)カーッて、じれったくなってパーンってかましたんだ。「あれ? 意外とウケたんじゃない?」みたいな(笑)。
――思わぬ副産物ですね
で、本当に太陽ケアはいいレスラーだなって思ったのよ。それで非常に全日本というものに興味を見出したんだ。その中で、新日本の母体自体が“思想”がグジャグジャになってたんだよ、そのとき。もう大みそかから何かグジャグジャ感があったんだわ。格闘家がプロレスやったり、「これはグジャグジャだな」って思って。そこで太陽ケアを「いいレスラーだな」って思い、1つ自分の中で企画したのが「プロレス好きなやつら集まれ」ということで“BATT”というチームを作ったんだ。
――団体の垣根を越えた超党派集団として現れました
当時、太陽ケア、みちのく(プロレス)の(新崎)人生、馳(浩)もいて。“垣根を越えた悪ガキ”どもっていう。そこで初めて“プロレスLOVE”っていうものができたんだ。「プロレスLOVEなやつら集まれ!」というね。多分そこだよな。それ以前にプロレスLOVEって(フレーズは)なかったと思うぜ。
――新日本内部がグジャグジャだったからこそ生まれたということですね?
思想が格闘技寄りでグデグデのときだったからさ、「本当にプロレス好きなやつ、もう1回集まれ」ということで呼びかけてBATTはできたんだ。
それで、今思えばもしかしたら(馬場)元子さんに……なんで東京ドームに俺が呼ばれたかって、元子さんの強いプッシュがあったというのをあとから知ったんだけど。「とにかく俺に上がってほしい」と。だからオヤジ(永島氏)のプッシュも強かったんだと思うんだよな。で、そこからだ。全日本に上がるようになったのは。
武藤「一大決心」の全日本電撃入団
全日本入団時は苦労したと武藤 【t.SAKUMA】
新日本に在籍しながら三冠ベルトも取っちゃったよ。それで新日本のリングにも上がりながら(全日本の世界)タッグのベルトも取っちゃってよ。さらに新日本の(IWGPタッグ)ベルトも取っちゃって。そんとき“エビ”みたいにベルト巻いて入場したよな(笑)。(2001年10月27日、全日本プロレス日本武道館大会)
――ありました(笑)。あの姿は会場で見ていて圧巻でした
もうなかなかできる人もいないでしょ?
――いないでしょうね。似合う人もいないと思います。それで徐々に「全日本いいな」って思うようになったんですか?
新日本は徐々にグデグデになってんだよ(笑)。こっち(全日本)は居心地よくってよ。で、ベルトまで取っちゃてさ。そんな中、俺は原点に戻るんだ。山本(小鉄)さんに「最後おまえ、もう少しがんばれよ」って言われたときの気持ち(インタビュー第1弾参照)。存在価値というか、期待されているというかさ。新日本ではどうということもない感じだけど、全日本ではすごい大切じゃないけど期待されてる感があるじゃない。人間それがうれしいわけであってよ。
――そうしていよいよ新日本を退団し、全日本に電撃入団することになりましたが
一大決心ですよ。
――もう行くしかないという感じでしたか?
そのころの新日本って「これは総合格闘技(路線に)行くな」と。現に行ったんだよな。まぁそういう予感もしてて、「総合格闘技行くなら、きっと俺のアメリカとかのすべてのキャリアがつぶれるな」と。そんなことではもったいないし。あと、40(歳を)越して転職も考えられないだろうし、どうせやるんだったら一国一城の主になりたいとかさ、いろいろ欲とかシチュエーション全部合わさって動いてるよ。
――では後悔はなかったですか?
未だに後悔ひとつもしてないよ。「(当時の新日本の)あの現場にいなくてよかったな」なんて思ったりもするし。その間に、こっち(全日本)を構築していったじゃん。一生懸命、苦労したけど。
――全日本入団、そして社長就任とやはり苦労は多かったですか?
だって一介の契約レスラーだ、新日本に在籍しているときは。本来、係長→課長→部長→社長になっていくかもしれないけど、行ったらいきなり社長だからな(笑)。
――社長業というところで苦労が絶えなかったと
リング上は得意分野なんだよ。ヘタしたらリングの遠目から見るすべての……マスコミも含めたプロレスの部分では得意分野だから。それはやっぱり今こうしてインタビューを受けているのもそうだし、ほかのレスラーには味わえない経験もしてるし得意なところ。でもそれだけじゃないもんね、(団体を)運営していくということは。
――経営者のつらさを肌で感じたようですね
あとは時代の大きな変化のときだから。プロレス界だけでなく変化のときであって、もともと(全日本は)馬場さんがいた所であって。やっぱり馬場さんというのは優れた人間で、そのときは“豊か”だったんだ、きっと。時代の中でバブルも過ごしているし。その中に「なんだ武藤っていうのが来て、なんなんだ」というところから始まるから。
――外様が何しに来たという雰囲気を感じた?
価値観が違うところから始まるから。そりゃしんどいですよ。それはファンのみんなもそうなんだわ。「乗っ取りに来やがって」とかさ。
――それでも自分の理想を目指して、とりあえず馬場さんのイメージを消していこうと思ったんですか?
ただ「馬場さんはいないんだよ」ということを誰も気がつかないんだよね。
――なるほど
でもリング上はおもしろいことをやってたよ、当時から。俺は自信持ってやってたもん。それこそ日本武道館でムタ、黒師無双、武藤敬司の3変化もやってし、(ビル・)ゴールドバーグも呼んだしさ。WRESTLE−1もやったよな。あれも言いだしっぺは、もしかしたら俺になっちゃうのかもしれないけどさ(笑)。