152キロ左腕・菊池、マー君に通じる一流の能力

田尻賢誉

自分自身で選んだ花巻東への進学

 実力があればあるほど、やっかみが増える。
 有名になればなるほど、否定的な言葉が聞こえてくる。
 花巻東高・菊池雄星(3年)は、中学時代からそんな経験をしてきた。

 盛岡東シニアに所属していた中学時代から、菊池雄星の名は知れ渡っていた。当然、甲子園常連校からいくつもの誘いが来る。だが、菊池が選んだのは、当時甲子園出場3回、佐々木洋監督になってからは2005年夏の一度しか出場していない花巻東高だった。その05年の甲子園も樟南高(鹿児島)に4対13の大敗。菊池はその選択に対し、否定的なことを幾度となく言われた。
「なんで県外に行かないんだ」
「関西、関東に行け」
「(県内の常連校である)専大北上、盛岡大付に行け」
 というのはまだいい方。
「もっといい指導者のいるところに行け」
「花巻東はチームワークを大事にするから伸びないぞ」
 というものまであった。
 
 中学生が自分で決めたことに対して、余計な口を挟む大人がどれだけ多いことか。だが、菊池は自分自身を信じた。菊池が花巻東高を選んだのはこんな理由からだ。
「中学1年のときに初めて練習を見学したんですが、雰囲気に圧倒されました。あいさつもすごかったですし、一生懸命やる姿にあこがれた。そのときにここに来たいと思いました。夏の県大会も見に行って、あえて花巻東側のスタンドに座ったんですけど、全員がひとつになって応援していた。これが本当のかっこよさだと思いました」
 うわさや聞いた話ではない。自ら足を運び、自らの目で確かめたからこそ、菊池には「花巻東は素晴らしいチームだ」という確信があったのだ。だから、周囲が他校を勧めれば勧めるほど、心は花巻東高に向いていった。
「いろんなことを言われて、逆にそれで(花巻東高に)行ってやろう、(伸びないと言った人たちを)見返してやろうと思いましたね」

 練習を見る目。雰囲気を見る目。中学生ながら菊池にはそれがあった。
 実はこれは、兵庫・宝塚ボーイズから駒大苫小牧高(北海道)を選んだ田中将大(東北楽天)にも通じる部分だ。田中は奈良・智弁学園高進学が決定的だったが、入学直前の監督交代で進路変更した。進学先は当時、甲子園で1勝も挙げていなかった駒大苫小牧高。初優勝を果たすのは、田中が高校1年生のときだ。田中は、甲子園練習や、大会期間中に行われる学校グラウンドでの割り当て練習を見て、駒大苫小牧高の雰囲気にほれ込んだ。当然のことながら、「なぜ、わざわざ弱い北海道に……」と多くの人に言われたが、結果は周知の通りだ。

“逆境力”で夏も主役に躍り出る

 高校1年で145キロを出し、夏の甲子園出場と順調なスタートを切った菊池だったが、同2年時は「150キロを出さないと伸びていないと言われる」と周囲の声を気にして伸び悩んだ。昨秋の東北大会では、甲子園が確定的となる決勝進出を目前にした気負いから光星学院高に敗れ、涙を流した。
 だが、センバツ出場をあきらめず、冬の練習に本気で取り組んだことで、甲子園では自己最速となる152キロをマーク。さらに岩手県勢初の準優勝を果たした。逆境をモチベーションにし、チャンスに変えたからこそ、春の活躍があった。
 実は、これも田中と同じ。田中は2年夏の甲子園で150キロを出したがために、スピードを意識して苦しんだ時期があった。優勝候補筆頭だった春のセンバツは、先輩の不祥事で出場辞退。いくつもの逆境を乗り越えて、最後の夏は甲子園で3年連続の決勝進出を果たした。

 最後の夏を迎え、菊池には新たに否定的な言葉が聞こえてくる。
「ガッツポーズをやりすぎだ」
「研究されて夏は勝てない」
「岩手の第一シードは夏に勝てない」
 だが、そんな言葉は菊池にとって、モチベーションにしかならない。

「本物」を感じ取る目、嗅覚。
 逆境を自分の力に変える能力。
 これこそ、一流の証――。
“逆境力”で、夏の甲子園でも雄星が主役になる。

<了>
  • 前へ
  • 1
  • 次へ

1/1ページ

著者プロフィール

スポーツジャーナリスト。1975年12月31日、神戸市生まれ。学習院大卒業後、ラジオ局勤務を経てスポーツジャーナリストに。高校野球の徹底した現場取材に定評がある。『智弁和歌山・高嶋仁のセオリー』、『高校野球監督の名言』シリーズ(ベースボール・マガジン社刊)ほか著書多数。講演活動も行っている。「甲子園に近づくメルマガ」を好評配信中。

新着記事

スポーツナビからのお知らせ

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント