ハギトモ、競泳人生第二幕のスタート

田中夕子

約5年ぶりとなる復帰レースで好タイムを出した競泳の萩原智子 【Photo:築田純/アフロスポーツ】

 6月14日、山梨県・甲府市内で行われた競泳の日本実業団大会山梨県予選会(短水路)。萩原智子(山梨学院大職)が競泳選手として、約5年ぶりとなるスタート台に立った。パチパチと身体をたたき、前傾姿勢からスタートの合図を機に、大きく、前へ。
「緊張して足が震えるかなと思ったけれど、意外と大丈夫でした」

 この日は、50メートルと100メートルの自由形2種目にエントリー。100メートル自由形では、前半25メートルを折り返すと、両端を泳ぐ山梨学院大の後輩たちをグイグイ引き離す。50メートルのターン時には25秒97。今年2月に上田春佳(東京SC)が53秒41の日本記録を出した際の、前半50メートルのラップ(26秒07)を上回る好タイムにスタンドが沸いた。「めちゃくちゃきつくて、必死だった」というラスト25メートルを泳ぎ切って、100メートルのタッチは54秒49。タイムが記された電光掲示板を見ながら、小さくフーッと息を吐いた。
「気持ちよかった。正直、100メートルでこんなにいいタイムが出ると思っていませんでした」
 競技者としての第二幕がスタートした。

北京で刺激を受け、アスリート魂に火がついた

プールサイドで、年下の仲間たちとリラックスした表情を見せた 【写真は共同】

「ハギトモ」の愛称で親しまれた萩原は、1998年のアジア大会で女子100メートル、200メートル背泳ぎ、400メートルメドレーリレーの三種目を制するなど、万能スイマーとして活躍。2000年のシドニー五輪ではメダルにこそ手が届かなかったものの、200メートル背泳ぎで4位、200メートル個人メドレーでは8位入賞を果たした。さらに、02年の日本選手権では、100メートル、200メートル自由形、200メートル背泳ぎ、200メートル個人メドレーで史上初の個人四冠を達成。ちなみに、彼女が同年にマークした100メートル自由形(長水路)の日本記録、54秒97はいまだ破られていない。
 しかしその後、2大会連続出場を狙った04年アテネ五輪では、代表選考会で代表入りを逃し、同年現役引退を発表した。
「5年前、本当に気持ちよく現役から離れることができた。まさか、自分がもう一度ここへ戻ってくるなんて思いもしなかった」

 明るく爽やかなキャラクターは引退後も人気を集め、山梨学院大学のカレッジスポーツセンター研究員として大学の仕事に携わる一方で、普及を目的とした「水泳教室」で全国各地を飛び回り、子どもからマスターズまで幅広い世代のスイマーたちと接してきた。そのすべてが財産。なかでも、見本の泳ぎを見せるたび、目をキラキラと輝かせながら「すごいね」と手をたたく子どもたちとの出会いが、萩原を大きな転機へと導いた。
「子どもたちにとって、トップアスリートの存在は絶対的に輝いたもの。一緒にプールで泳いだ私が、五輪や大きな大会に出ている姿を見たら、きっとすごくうれしいんじゃないかなと。もう一度やってみよう、やってみたいなと思うようになったんです」

 同じころ、競技者としてではなく、初めて取材者として、五輪に触れる機会を得た。昨夏の北京で目の当たりにしたトップアスリートたちの勇姿に鳥肌が立った。「取材者」ではなく「競技者」として、再びここで戦いたい。アスリート魂に火がついた瞬間だった。

「やるからには日本代表になりたい」

 シドニーやアテネを目指す日々の苦しさを知る両親や姉は、復帰の決意を聞くと、「もうそんなにきつい思いをすることはない」と口をそろえて反対した。だが、賛同者もいた。
「もう一度やる、と言うだろうと思っていたよ」
 3年前に結婚した夫の佐藤一馬さんと、ともに五輪を目指し続けた山梨学院大水泳部の神田忠彦監督だった。

 昨年10月からは、母校で後輩たちに混ざり、本格的な練習を再開。朝5時からプールに入り、1日に8キロ以上泳ぎ込むこともあった。充実感に溢れているため、必然的に追い込みがちになる。時には体が発したSOSのサインを見過ごし、疲労から帯状疱疹(たいじょうほうしん)が出たこともあった。手応えを感じ始めたのは、今年1月に入ってから。日々の筋肉痛は相変わらずだったが、体と泳ぎに生じた変化は確かなものだった。

 4月、静岡県浜松市での日本選手権。レース解説とプレゼンターとして現地を訪れ、試合を観戦した。トレーニングで少したくましくなった両腕を触りながら、萩原がポツリとつぶやいた。
「私も、早くあそこに行きたいな」
 スタート台に立つ選手の姿に、自身の姿を重ねていた。

 復帰第1戦では、50メートル自由形で25秒58、100メートル自由形で54秒49と、いずれも「現段階の自己ベスト」を記録しただけでなく、水深1.2メートルの小さなプールで、これまでとは確実に異なることも感じ取っていた。
「自分も取材者側に立たせてもらったことで、周りが見えるようになった。自然体で臨めるようになりました」
 40社を超す報道陣が押し寄せ、レース中だけでなく、アップからクールダウンまで、多くのカメラに追いかけられる。以前は、そのこと自体がたまらなく嫌だった。それが、5年経った今、不思議なほど気にならなかった。

 いくつもの要素が重なり合ったときが、今だった。萩原は「やるからには日本代表になりたい」と口にしたが、だからと言って、ロンドン五輪と結び付けるのは早計だろう。誰より、彼女自身がその道の険しさを知っている。今はただ、泳ぎ始めた子どものころのように、自分のペースでひとかきずつ、自らの道を切り開いていくだけだ――。

<了>
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著者プロフィール

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、『月刊トレーニングジャーナル』編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に『高校バレーは頭脳が9割』(日本文化出版)。共著に『海と、がれきと、ボールと、絆』(講談社)、『青春サプリ』(ポプラ社)。『SAORI』(日本文化出版)、『夢を泳ぐ』(徳間書店)、『絆があれば何度でもやり直せる』(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した『当たり前の積み重ねが本物になる』『凡事徹底 前橋育英高校野球部で教え続けていること』(カンゼン)などで構成を担当

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