元日本代表MF福西が語る引退の理由=磐田、移籍、代表、自身のキャリアを振り返る

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トークイベントで、磐田、日本代表時代などを振り返った福西氏 【スポーツナビ】

 ジュビロ磐田、FC東京などで活躍した元日本代表MF福西崇史氏が1日、東京都内で「ぴあトークバトル スポーツ快楽主義2009」のイベントに出席し、自身のキャリア、現役引退の経緯などについて語った。ゲストとして、JFA(日本サッカー協会)特認理事の北澤豪氏もイベントに参加し、2人はサッカーへの熱い思いをぶつけ合った。

キャリアの転機となったボランチ転向

――北澤さんにとって、福西さんはどのような選手でしたか?

北澤 日本にはいないタイプですね。これだけフィジカルが強くてパワーがあるのに、ボールタッチが繊細ですからね。瞬時にパスコースを変えられるし、これだけギャップのある選手はいないと思います。

福西 でも僕が(95年に)磐田に入ったときは、ほかの選手(のプレー)についていけなかったし、足を引っ張ってばかりでしたね。サテライト(2軍)でも出場登録メンバーに選ばれなくて、このままじゃ(選手として)終わると思いました。(試合に出場するようになった)きっかけは、オフト監督(当時)に「ボランチをやってみないか」と言われたことで、自分としてはFWで通用しないんじゃないかと思っていたときだったので、「やります」って言いました。ただ、それまでボランチをやったことがなかったので、何をしたらいいか分かりませんでした。FWのときはボールを持ったらシュートしか考えていなかったんですが、ボランチではボール回しが大事だし、360度を見る必要があるので、そこを意識しながら練習しました。

 僕がプロになったきっかけも、強豪チームと試合をしたときに、対戦相手が強くてまったくボールを触ることができなかったのに、(スカウトに)「練習に来ないか」と誘われたからです。後から聞いたら、プレーサークル(プレーできる空間)が広いからだと言われましたが、自分では何が良いのか分かっていませんでしたね。ただ、プロになるのは自分にとってすごく大きなチャレンジでした。高校選手権で活躍したエリートでもないし、いろいろなところから声がかかる選手でもなかったので、そんなところに行って大丈夫かなと思いました。愛媛県内では少しだけ有名でしたけど(笑)。

磐田のサッカーは楽しくてしょうがなかった

――愛媛に比べて磐田は都会でしたか?

福西 そこが大事なところで、同じくらいでしたね(笑)。移動距離が遠くて、最初はホームシックになっていましたけれど、磐田はサッカーに打ち込める環境ですごく住みやすくて、ストレスはなかったですね。

北澤 僕が東京から本田技研(浜松市)に行ったときは、環境の違いに慣れなかったですね。自衛隊の飛行機の騒音や強風(浜松は“からっ風”が有名)とか、寂しくなって精神的にも肉体的にもダメになりました。

――当時、磐田は黄金時代でしたが

福西 磐田は1994年からJリーグに参入して、97年のセカンドステージ優勝まで苦しい時期はありました。ヴェルディ(川崎=当時)の方が強かったですからね。

北澤 磐田とは対戦する楽しさがありましたね。(磐田が)こだわっているのが技術やファンタジーの部分だったりするので、鹿島アントラーズと対戦するのとは違う意識で戦っていました。ボールを回されるのは悔しいですけど、磐田にはいい選手がそろっていましたから。

福西 (磐田と対戦する)相手チームが、ハーフタイムにはどんよりしているって言っていましたね。好きなようにボールを回されて、疲れ切って後半は足が止まる。(磐田にとっては)楽しくてしょうがなかったです。「(ハーフタイムの)ミーティングは必要ないでしょ」って話してましたね。

――チーム内での競争意識は高かったですか?

福西 高かったです。名波(浩)さんやドゥンガ、藤田俊哉、スキラッチ、高原(直泰)とか、中山(雅史)さんも。中山さんはゴールを決めるだけでしたけど(笑)。最初は僕もついていけなくて(パス回しに)参加できないんですよ、入ったら邪魔するんじゃないかって。(パス回しに)自然に入れるようになったのは97年、98年ごろですね。

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