高原直泰、遠い復活への道のり=不振にあえぐ現状に迫る

島崎英純

キャリアのピーク、満を持してのJリーグ復帰だったはずが……

高原は昨年から長く続く不調から抜け出せず、浦和でのレギュラーポジションも危うくなっている 【Photo:アフロ】

 高原直泰が不調にあえいでいる。
 2008年1月にアイントラハト・フランクフルトから浦和レッズへ移籍。当時は28歳と年齢的にはプロ人生の最盛期。Jリーグ復帰はおよそ6年ぶりのことで、その豊富な海外経験を基に浦和だけでなく、日本代表での飛躍も大いに期待された。

 高原自身、浦和加入当初は希望に満ち溢れていた。
「今日から浦和の一員として、チームの勝利のために全力でプレーしたいと思います。サポーターの方たちに、納得してもらえるプレーをピッチ上で見せたいです。FWなので結果を出して、認められるようにしたいです」

 高原は人見知りする性格であると言われる。しかし浦和には同じ静岡県出身で学生時代から旧知の仲である平川忠亮や、日本代表の活動で付き合いのあった坪井慶介らの同い年の選手がおり、彼らが高原のサポート役を買って出た。実際、2008年初頭のグアムキャンプでは高原と坪井が同部屋になり、常に行動を共にしていた。
 また、当時の指揮官だったホルガー・オジェックと高原との関係も良好だった。オジェックは高原をFWのファーストチョイスと考え、田中達也が負傷リハビリ中だったこともあって、高原と同時期にアルビレックス新潟から加入したエジミウソンとの2トップでシーズンをスタートさせる心積もりでいた。練習ではドイツ語を操れる高原が監督と選手の間に入って簡単なフレーズながらも橋渡し役をこなすシーンもあり、この時点では、高原の前途に不安材料は見られなかった。

 だが、その後の低迷は周知のとおり。シーズン開幕2試合でオジェックが解任され、新たにゲルト・エンゲルスがヘッドコーチから監督に昇格すると、その立場も凋落し、シーズン終盤にはベンチ待機を余儀なくされてしまった。
 2008年シーズンの高原の個人成績はリーグ戦27試合6得点。カップ戦(ナビスコカップ、天皇杯)4試合1得点。そして日本代表は4試合0得点。ちなみに5月のキリンカップ・パラグアイ戦以降は岡田武史監督からの招集も途絶え、今日に至っている。

迎えた2009年シーズンもいまだノーゴールが続く

 2009年シーズンの浦和はフォルカー・フィンケを新指揮官に任命し、タレント力に依存するサッカーから組織力を重視するサッカーへの転換を図るべくリニューアルを敢行している。
 フィンケ監督は当初、前任者たちと同様、高原に多大なる期待を寄せていた。そして高原も昨季の低迷を踏まえて一念発起し、昨年末から自主トレーニングを行ってコンディション維持に努めてきた。
 その成果が見られたのは2月の鹿児島・指宿キャンプ。2トップ、もしくは1トップのFWを務めた彼は、練習試合で豪快なジャンピングボレーを決めるなどして好調をアピール。そしてシーズン開幕戦となったJリーグ第1節・鹿島アントラーズ戦では当然のようにスターティングメンバーに名を連ねた。しかし……。

 4月21日時点での高原の個人成績はリーグ戦6試合0得点。カップ戦2試合0得点。うち、リーグ戦では6試合中4試合が途中出場。現在はFWのレギュラーポジションをほかの選手に譲り渡している。

 リーグ第6節・京都サンガF.C.戦で原口元気に代わり途中出場し、32分間プレーした高原は翌日、サテライトリーグの新潟戦で先発のピッチに立っていた。しかし埼玉県北部にある鴻巣市立陸上競技場の荒れた芝生に何度もたたきつけられた高原は、またしても無得点でピッチを去ることになる。総計62分間のプレーは不本意なもの。高原は達観したかの表情で「お疲れっす」という言葉を残し、年下のGK加藤順大と用具箱を運びながらバスに乗り込んでいった。

ドイツ時代の指導が裏目に

 ここからは現在の高原のプレーパフォーマンスを分析してみたい。
 まず、今の高原は相手ゴールに背を向けるプレーが多い。クサビのパスで起点になる、はたまたボールポゼッション率アップの一翼を担う意欲が強いのか、自陣深くまで下がってボールを受けるシーンが見受けられる。その際、かつてジュビロ磐田に在籍していた2002年当時の彼ならば、瞬時の反転で守備者をかわしてゴールへ突進するプレーが見られたが、今はボールを受けるとブロックに注力して味方のフォローを待つか、むやみなドリブルでボールを失うことが多い。

 高原は03−04年当時、在籍していたハンブルガーSVの指揮官だったクラウス・トップメラー(ほかにフランクフルト、ボーフム、レバークーゼンなどを率いた)からポストプレーの指導を受けたという。
 トップメラーは屈強なDFを擁するブンデスリーガでのプレーに悩んでいた高原に、パワフル性を求めた節がある。指揮官がお手本に示したのは高原の同僚だったセルゲイ・バルバレス(レバークーゼン、ハンブルガーSVなど)。バルバレスは現在でいえばディミタール・ベルバトフ(マンチェスター・ユナイテッド)と同タイプのFWで、大柄でありながら足技にも優れ、抜群のポストワークで攻撃の起点になる選手だった。ちなみにベルバトフは01年から03年の間、所属していたレバークーゼンでトップメラーの指揮下にあった。

 高原はもちろん、歴代の日本人FWの中ではポストワークの才もあった。しかし彼のストロングポイントはそれだけではなく、鋭い反転力や馬力のあるドリブル、そして何より相手ペナルティーエリア内におけるボールコンタクト能力。すなわちピンポイントゲッターとしての才だったはずだが、トップメラーによってその能力が封印されてしまった可能性がある。

 ただし、ドイツ時代に高原が輝いていた時期もある。それはトップメラーがハンブルガーSVの監督を解任された後の04−05年時、トーマス・ドル体制でファーストFWに任命されたとき(シーズンで7得点をマーク)。そして06−07年シーズンに移籍先のフランクフルトでリーグ11得点を挙げ、その直後に選出されたイビチャ・オシム体制の日本代表で絶大な存在感を示した時期である。
 この時期の高原に共通していたのは、チーム内における立場だった。1トップ、もしくは2トップの一角。相手ペナルティーエリア内の狭い地域で勝負することを許され、ゴールだけに専念できた。ピンポイントゴーラーである彼の特性を生かすにはうってつけのエリアで、高原はチーム戦術の歯車になれた。特に、チーム内において同タイプのFWが共存していない場合には役割分担が明確になり、フィニッシュに全神経を集中させればよかったのだ。

 しかし、その栄光は長くは続かなかった。それはチーム内のFWのポジションに強烈なライバルが出現したことを意味する。ハンブルガーSVでは前述のバルバレスに加えてベンジャミン・ラウト、エミール・ムペンザ、アイウントンらが次々と加入してポジション争いが激化。フランクフルト時代には前年に高原がゴールを量産して結果を残したにもかかわらず、フリートヘルム・フンケル監督がさらなる戦力補強を狙ってヨアニス・アマナティデイスを獲得して高原をエースFWの任から解き、3トップの左ウイングに据えた。これによって高原は、新たなポジションでの役割に注力する必要に迫られ、中盤でのボール関与に意識が傾くようになったようだ。

 現況の浦和においても高原はポジション争いの波に飲まれている。昨季の大半は2トップでエジミウソンとコンビを組んだが、得意の“ペナルティーエリア”はエジミウソンに譲り、自らはFWにもかかわらず頻繁にポジションを後ろに下げた。そして田中達が負傷から復帰するとチーム内の序列が下がりベンチ行きを余儀なくされている。そして今季は浦和ユースから原口元気がプロ契約を交わして、一層FW陣の層が厚くなった。また新任のフィンケ監督は選手全員に攻守両面における貢献を求めるため、狭いエリアで職人的な仕事をするタイプのFWはピッチに立つことが難しくなっている。

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著者プロフィール

1970年生まれ。東京都出身。2001年7月から06年7月までサッカー専門誌『週刊サッカーダイジェスト』編集部に勤務し、5年間、浦和レッズ担当記者を務めた。06年8月よりフリーライターとして活動。現在は浦和レッズ、日本代表を中心に取材活動を行っている。近著に『浦和再生』(講談社刊)。また、浦和OBの福田正博氏とともにウェブマガジン『浦研プラス』(http://www.targma.jp/urakenplus/)を配信。ほぼ毎日、浦和レッズ関連の情報やチーム分析、動画、選手コラムなどの原稿を更新中。

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