山あり谷ありの野球人生で輝く投手たち
第79回都市対抗リポート

相木崇(松下電器) 「長く投げられるピッチャーでいたい」

プロ野球を経て松下電器に入社した相木
プロ野球を経て松下電器に入社した相木【島尻譲】

 相木崇は熊本市商高(現千原台高)3年夏に県大会4強に進出。福岡大では3年春と4年春に最優秀選手を獲得し、2000年秋のドラフト会議でオリックスから4位指名を受けてプロ入りした。プロ2年目に1軍初登板を果たすと、2戦連続完封勝利を挙げるなど順調な滑り出しだった。その後は横手の技巧派投手という持ち味を武器に中継ぎ投手として活躍。しかし、06年に阪神へ移籍すると、次第に登板機会が減り、昨秋に戦力外を告げられた。

 そして、今春から相木は社会人野球の名門・松下電器のユニホームに袖を通す。これまでにも松下電器は丸尾英司(現ヘッドコーチ/オリックス−大阪近鉄)、栗山聡(オリックス−中日−オリックス)、梶原康司(阪神)と元プロを受け入れる土壌が整っており、08年は田中充(横浜)も加入している。

 相木は春先から貴重な戦力としてフル回転。これ以上、得点を与えられないという場面でのリリーフ登板が多いのはプロ時代と同じで、修羅場を何度もくぐって来た経験が大いに生かされた。松下電器の都市対抗出場(阪和・第1代表)の立役者であったことは誰もが認めている。


 都市対抗の舞台でも相木の存在感は際立っていた。まず、初戦(ヤマハ戦)は1点を勝ち越した直後の6回からロングリリーフ。低めにボールを集める丁寧な投球に加え、プロ時代はほとんど投げなかったというシュートが特に効果的だった。キッチリとヤマハ打線を封じ込み、勝利の瞬間はマウンドで右拳を突き上げて満面の笑みを浮かべた。

「初めての都市対抗はプチ甲子園みたいでしたね。甲子園で投げた時は外野席の応援がすごかったけど、都市対抗は内野席の応援がすごい。こんなに応援してくれるんだと心の底からシビレました。勝つことが会社への恩返しになる。一戦必勝、これからの試合も頑張るだけ」

 相木はタオルで額から流れる汗をぬぐいながら抱負を語った。


 2回戦(熊本ゴールデンラークス戦)は2点ビハインドの5回から登板。ここでも相木は内野ゴロの山を築き、試合をつくる。そして、8回に新田玄気のスリーラン本塁打が飛び出して逆転勝利。

「負けていたけど相木を投入するしかないと思った。本当に相木様々」

 監督として初めて都市対抗で指揮を執る松井稔也監督も手放しで相木を誉め称えた。


 4強入りを懸けた3回戦(富士重工業戦)も相木は2点のリードを許して、なおも5回2死二塁というピンチから登板して後続を絶った。試合は富士重工業のベテラン左腕・阿部次男の好投で1対2と惜敗したが、相木の3試合続けてのロングリリーフでの好投は輝いていた。

「本当に悔しいし、勝ちたかった。だけど、チームとして恥じることはない。ベスト8に入ったことを誇りに、秋(日本選手権)は頂点を目指したい。それにしても、阿部さんはええピッチャーですわ。正直、球は速くないけれども狙い球を絞らせない、連打を許さない。あとはプロとは違う一発勝負の世界で勝負しているから勝負どころをよく分かっている。長く(阿部は35歳)投げられるのも納得です。僕も長く投げられるピッチャーでいたい。投げ合えたことはいい経験。勉強になりました」

 そう言い残して、相木は東京ドームを去った。

藤江均(東邦ガス) 「投げて打たれて勉強せなアカン」

クラブチームから企業チームに転籍した藤江
クラブチームから企業チームに転籍した藤江【島尻譲】

 藤江均は上宮太子高を卒業した後の進路が決まっていなかった。野球は続けたいという気持ちは強かったが、進学・就職でふさわしい受け皿がなかったのだ。

「もう野球はええっちゅうことかな」

 そう思っていた時に父親から地元(大阪府堺市)にできたクラブチームへ入ったらどうだと強く勧められた。そのチームがNOMOベースボールクラブ(NBC)だった。

 NBCに入ることを決めた藤江だが、1度は野球から離れようという考えもあっただけに当初はモチベーションも上がらずに、自宅から自転車で5分という練習グラウンドにも積極的に足を運ぶことはなかった。オーナーである野茂英雄氏が現れる時も「野茂さんが来はるんやから行っとこうか」とやる気は今ひとつだった。

 ところが、NBCの活動が本格化すると藤江は徐々に目覚めて行く。

「自分がいかに甘いかいうことを思い知らされた」

 そう藤江が語るのはほかのチームメートの野球に対する姿勢を目の当たりにしたからである。

「自分もパチンコ屋でホール係のバイトをしながらやったけど、自宅から通っていたから楽なところも多かった。せやけど、地方から出て来たチームメートは働いて、練習して、日常生活のこともして寝る時間が2〜3時間みたいな。恵まれた環境の自分がやらなどうすんねん。負けたらアカンと思ったし、シッカリせな申し訳ないと思った」


 エースとなった藤江はNBCの都市対抗初出場やクラブ選手権優勝の大きな原動力となり注目されるようになる。そして、NBCで3年目を終えた時に清水信英監督から呼び出された。

「東邦ガスから声が掛かっている。より野球に集中できるチャンスやと思うぞ」

 後押しもあったことから、藤江はクラブチームから企業チームへの転籍を決めたのである。


 東邦ガス転籍1年目は主にリリーフ投手という役目を担う。チームは都市対抗出場こそ逃したが、藤江はホンダ鈴鹿の補強選手に選ばれた。転籍2年目となったことし、都市対抗予選ではクローザーとして4試合13回無失点。都市対抗では初戦(日立製作所戦)に先発して14奪三振、1失点完投勝利を挙げた。続く2回戦(王子製紙)も先発の重責を託された。

 この東海地区のチーム同士の熱戦はスコアボードにゼロが刻まれたまま進んだ。藤江は延長10回まで13奪三振で被安打はわずか3本という内容で、ストレートも常時140キロ台中盤(最速146キロ)を計時。NBC時代に練習している野茂氏から盗み出したフォークもさえていた。だが、悪夢は11回裏に訪れる。先頭打者をセンターフライに打ち取ったかと思ったが、センターが目測を誤ってしまったのだ(結果は三塁打)。ここで東邦ガスは満塁策を選択して、藤江は代打・青山眞と勝負することに。この試合164球目となるインコースを狙ったストレートが少しばかり真ん中に入ってしまった。これをライト前にはじき返され無念のゲームセット。藤江はしばらくの間、サヨナラ打が放たれた右翼から目を離さなかった姿が印象的だった。

「負けたくない一心やった。勝負したい気持ちもあったけれども、満塁策は作戦ですからね。このサヨナラのシーンを忘れないで今後も全力でやりたい」

 悔しさに溢れながらも淡々と語った藤江に、筆者は数日後電話を入れた。

「自分も少し大人になったと思いませんか? まぁまだまだ若いんですけれども(笑)。NOMOに東邦ガス、補強選手の経験もさせてもらっていますし、ホンマにいろいろな選手とコミュニケーションもあってプラスになっているんやと思います。自分みたいなピッチャーは投げて打たれて勉強せなアカンですからね。都市対抗の1勝も1敗も財産になりました」


 NBC在籍時は“生意気なくらい”気持ちを前面に押し出して来る勢い重視のスタイルだった。しかし、久々に観た藤江はその尖がった部分も失わずに冷静さも持ち併せていた。プロ注目のドラフト候補に名を連ねることにも納得である。

島尻譲

 1973年生まれ。東京都出身。立教高−関西学院大。高校、大学では野球部に所属した。卒業後、サラリーマン、野球評論家・金村義明氏のマネージャーを経て、スポーツライターに転身。また、「J SPORTS」の全日本大学野球選手権の解説を務め、著書に『ベースボールアゲイン』(長崎出版)がある。

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