勝敗を分けたベンチワーク――ピンチでの“間”=タジケンの高校野球観戦記 Vol.14
ピンチを救った伝令
だが、明るい性格でムードメーカーでもある小沢がこれだけを伝えて帰るはずもない。「みんなをリラックスさせたい。笑顔になってほしい」という思いから倖田來未の『I’ll be there』を歌った。これで力が抜けたエース・近田怜王は1球で2番の佐野力也をセカンドフライに打ち取り2死。“小沢効果”で本来の姿を取り戻したように思われた。
それでも、永田監督は続く3番の森川真雄が打席に入る前に再び小沢を伝令に送る。「5回が勝負どころだと思った」からだ。だが、2者連続の伝令に選手たちは多少なりとも面食らった。
「(伝令から戻った後、1球で2度目の伝令の機会が)すぐ来たので、あまり伝わりませんでした。2人連続は初めて。まさかと思ったので、ネタがありませんでした」(小沢) 2度目の伝令はそれほど効果がなかったが、1度目で余裕を取り戻していた近田は落ち着いて森川を1球でレフトフライに打ち取り、ピンチを脱出した。
5回を終了して4対2。優位に試合を進めていた報徳学園高だったが、甲子園ですでに3連続完投している近田が100球に近づいた6回に疲れを見せ始める。先頭の4番・萩原圭悟にライト前安打、5番・奥村翔馬にレフト線二塁打を許し無死二、三塁のピンチ。回はまだ中盤。2点のリードがあったが、ここでベンチの永田監督は前進守備を指示した。直後に近田は暴投で1点を献上。なおも四球、レフト前安打で同点となったところで、永田監督は最後となる3度目の伝令を送った。
「自分もピッチャーなので、ピンチのときにどうしてくれたらうれしいかを考えてます。あのときはみんなの顔が硬かったので、糸井(慎太朗)と氏家(大輔)の顔をつまみました。自分がベンチに戻った後もリラックスを続けてほしかったので」(小沢)
この後、近田は暴投で進塁を許すが、不運なセカンド内野安打による1点だけの最少失点で食い止めた。
報徳学園が使えなかった“切り札”
「ここで行ってあげられたら……と何回も思いました。マウンドに行きたかった。あとはもう、ベンチから大声で声をかけるだけでした」(小沢)
伝令は3度までと決められているが、捕手や野手がタイムを取ってマウンドに行くことには回数制限がない。だが、報徳ナインはその余裕も失っていた。近田に対して、守備位置から大きな声で励ますのが精一杯。6回無死二、三塁の場面など、何度かタイムを取ってマウンドに駆け寄っていた捕手の糸井も、防戦一方にまわった7回以降はタイムを取れなくなっていた。
「近田が頑張っていたし、冷静にやろうと思ってました。ただ、タイムを取っていれば7点以内に抑えられたというのはあると思います」(糸井)
初戦の新潟県央工高戦から、小沢が伝令に行くたび、報徳ナインは笑顔になっていた。小沢の甲子園初伝令となった新潟県央工高戦の8回2死二塁では、近田は伝令直後の打者・4番の牧田匠から三振を奪ってピンチを脱している。
「どんな状況でも、小沢さんが来てくれると笑顔になって、緊張もほぐれるんです。頼りになる存在ですね」(三塁手・西郷遼平)
その伝令が、来ない。
「(7、8回は)伝令が使えなかったし、苦しかった。近田さんもいつもより苦しそうでした。その分、絶対守ってやろうという気持ちでいました」(西郷)
それほど小沢の役割は大きかった。
この点を永田監督に尋ねると、きっぱりとした強い口調でこう返ってきた。
「伝令が使えず流れを止められなかった? それはないと思います」
普段から選手たちを一番見ているのが監督。「コイツはこういう場面では危ない」など監督ならではの予感があるはずだ。第三者が試合の一場面だけを見て、それを判断することはできない。
だが、選手たちの話を聞く限り、一度でも伝令を残していれば……。
試合の流れを左右することもある“間”。それだけに、切り札として使えることもある。焦らず、いつそのカードを切るか。“間”を取るタイミングは難しい。
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