植田ジャパンの若き大砲=男子バレーボール・清水邦広

田中夕子

現役大学生で日本代表に選ばれた清水。若き大砲が語る五輪への決意とは 【坂本清】

 バレーボール男子最年少の現役大学生、清水邦広。サウスポーを生かしたライトからのスパイクや、レフト打ちもこなす器用さで、昨秋のワールドカップ(W杯)では鮮烈なデビューを飾った。
 スパイク決定後に見せる派手なガッツポーズや、物おじせずに笑顔で「ゴリです」とコートインタビューへ応じる明るさに惹きつけられる人も多く、清水が登場するたび、会場ではひときわ大きな声援が送られる。
 16年ぶりの五輪切符をつかんだ全日本男子にとって“前回”の五輪だったバルセロナのころ、清水は5歳。日本男子が五輪に出場していることを知らずに、故郷・福井で走り回るやんちゃな子どもだった。後に少年はバレーボールに出会い、16年ぶりの快挙を成し遂げる。21歳の清水が語る五輪へ向けた決意とは――。

野球か、バレーかの選択

チーム最年少の21歳、清水。破壊力のある攻撃が彼の魅力だ 【坂本清】

――まず、清水選手がバレーボールを始めたきっかけから教えてください

 母がママさんバレーをやっていたので、自分もその練習についていって、バレーを近くで見ていくうちに「やりたいな」と思うようになりました。兄もバレーボールチームに入っていた影響もあって、小学校4年から本格的に始めました。当時はソフトボールもやっていたので、バレーだけでなく野球にも惹かれる気持ちはあったのですが、中学の先生に「お前は背が高いから、バレーをやったほうがいい」と薦められて、野球ではなくバレーボールを選びました。こうして五輪に出場することもできたし、いろいろな人に出会えたし、あのとき先生に「バレーをやったほうがいい」と言ってもらえて良かったなぁと思っています。

――現在は193cmですが、バレーを始めたころの身長はどれぐらいでしたか?

 140cmぐらいだったと思います。いや、150だったかな?(笑)。特別大きいわけではないけれど、クラスのなかでは背が高いほうで後ろから1番か2番ぐらいでした。身長が伸び始めたのは中学からです。入学したときは168cmでしたが、卒業するときには189cmありました。

――「ゴリ」というニックネームがつけられたのはいつごろでしょうか?

 高校からです。(福井工大福井)高校バレー部の顧問だった堀(豊)先生から突然「ゴリ」と言われたのが最初です。何でゴリなのか理由は分からないですが(笑)、高校1年のときに、先生から「お前はゴリだ」と。当時は監督以外にゴリと呼ぶ人はいなかったのですが、全日本でもゴリと呼ばれるようになって、今ではすっかりゴリです。

父のような荻野、負けたくない存在・山本

全日本主将の荻野は、高校の先輩でもある 【坂本清】

――清水選手が感じるバレーボールの魅力は何でしょうか?

 スパイクです。競っている場面で決めるスパイクは快感でもあり、味わったら病みつきになるような爽快(そうかい)感があります。それがあるから、今でもずっとバレーボールを続けているのだと思います。(全日本レギュラーで同ポジションの)山本(隆弘)さんにも、スパイクでは負けない自信があります。でもそれ以外のブロック、サーブは山本さんの方が1つ上を行っているので、特にスパイクでは負けたくない。スパイクで負けてしまったら、自分に取りえがなくなってしまうので、そこだけは負けたくないですね。

――東海大学ではキャプテン、全日本では最年少。ご自身として立場の違いをどのように捕らえていますか?

 一応はキャプテンですが、あまり大学にいないので役に立っていないです。自分が上になって引っ張っていくこともやりがいがありますが、全日本では先輩からいろいろなことを学ぶことができて、いい経験をさせてもらっているなぁと思っています。まだ先輩の後ろをついていくだけですけどね。話を聞いていないとか、すぐ忘れるとか、いろいろ怒られっぱなしだし(笑)。W杯では荻野(正二)さんと同部屋だったのですが、そのときは「もっと部屋を片付けろ」とか言われていました。でもそんなに汚くないっすよ(笑)。荻野さんは高校の先輩なのですが、いつも怒ってくれるし、守ってくれるし、お父さんみたいです。

――これまでのなかで、強く印象に残っている試合は?

 W杯のころまでは、高校のころやインカレが印象深かったのですが、今はやはり五輪出場を決めたアルゼンチンとの試合です。自分は試合に出ていませんでしたが、最後に荻野さんが決めたのも印象深かったし、ベンチから見ているだけであれだけ感動したので、コートに入っていたらもっとすごかっただろうなと思いました。最終予選は試合に出る機会が少なくて外から見ることが多かったのですが、とにかくみんなの気迫がすごかった。「自分も早くそこに立ちたい」といううらやましさと、悔しさ、みんなを尊敬する気持ち。いろいろな思いもあったので、アルゼンチン戦が一番印象に残っています。

――五輪出場が決まって、最初に報告したのは誰でしたか?

 誰だったかなぁ。母は会場へ見に来ていたので、今までお世話になった中学、高校、大学の先生に電話で連絡をしました。みんなが喜んでくれて、自分もうれしかったです。

――バルセロナ五輪が行われていた16年前は5歳でした。最終予選の前は「日本男子が五輪に出ていることも知らない」とおっしゃっていましたね

 そうですね。だから今もまだ実感はないです。始まっていないから、よく分からないのかもしれないですね。緊張することはないと思いますよ。ただ、予選ラウンドの日程を見たら、試合開始が夜の11時(日本時間)という試合もあったので、どうなるのかなという怖さや気持ちはありますね。大学の友だちにも見てほしいけれど、みんなお金がないので来られないと思います(笑)。でもその分、福井に住んでいる近所の人たちが「応援に行くからね」と言ってくれています。うれしいし、ありがたいですね。開会式も出てみたいです。五輪、楽しみですね。

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著者プロフィール

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、『月刊トレーニングジャーナル』編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に『高校バレーは頭脳が9割』(日本文化出版)。共著に『海と、がれきと、ボールと、絆』(講談社)、『青春サプリ』(ポプラ社)。『SAORI』(日本文化出版)、『夢を泳ぐ』(徳間書店)、『絆があれば何度でもやり直せる』(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した『当たり前の積み重ねが本物になる』『凡事徹底 前橋育英高校野球部で教え続けていること』(カンゼン)などで構成を担当

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