20年ぶりによみがえった「南海ホークス」

田尻耕太郎

杉浦監督の涙から7164日

 南海ホークスの杉浦忠監督が大阪球場を埋め尽くしたファンに、「行ってまいります」と告げたのが1988年10月15日。あの日から7164日目の2008年6月6日、南海ホークスが20年の時を経て関西のファンの前に帰ってきた。
 福岡ソフトバンク・ホークスはこの日、甲子園球場で行われた阪神戦に「南海ホークス復刻ユニホーム」を着用して試合に臨んだ。モスグリーンの帽子とロゴマークに、特徴的な左腰の「腰番号」。これは、南海が輝かしい成績を残した1959年から10年間着用したホーム用のユニホームを復刻したもので、球団創設70周年を記念して、この試合でお披露目されることになったのだ。

 このユニホーム、製作にはかなりの苦労があったそうだ。特に大変だったのが独特のモスグリーンの色合いを再現することだった。南海時代にプレーをしていた解説者などのアドバイスを受けて、何度も何度も改良を重ねたと聞いている。そのかいあって出来栄えは上々。元南海戦士で解説者の藤原満さん(1969年入団)は「懐かしい」とレプリカに袖を通しただけでも大喜びしていた。
 一方、現在のホークスに南海でプレーした選手は誰もいない(現役では巨人の大道典嘉が唯一の南海ホークス経験者)。それでも川崎宗則は「歴史の厚みを感じました」と話し、「その時のプレーヤーの気持ちになって、無敵のホークスとして戦いたい」と力を込めた。また、選手たちに好評だったのが足元の「オールドスタイル」。甲子園球場という場所も重なって「高校のころはこのスタイルが当たり前だった。当時を思い出します」という声が多く聞かれた。
 また、王貞治監督にとって当時の南海は手ごわいライバルだった。「当時は南海も人気があった。大阪球場はお客さんでいっぱいだった」と懐かしみ、ユニホームについても「こういう色はいいね。最近は派手な色が多いから」と目を細めた。

南海の復活を歓迎したファンたち

 そして、一番喜んだのは南海時代からホークスを応援し続けているファンだろう。試合開始の4時間も前から、レフトスタンドの入場口には南海ユニホームを着て並ぶファンの姿があった。おそらく自宅のタンスの奥に、大切にしまっていたのだろう。このニュースを聞いて、大喜びで洋服をかき分けて見つけ出し、それを目の前に掲げたに違いない。そのときの満面の笑顔は容易に想像がつく。そんな幸せな思いをしたファンが、たくさん球場に駆け付けていた。
 レフトスタンドの一角を陣取ったホークスファンの数は、2003年の日本シリーズで見たときよりも多かった。そしてこの日、選手別の応援歌は南海当時のものを使用していて、このメロディーは佐々木誠だ、そうだ山本和範だ、これは門田博光だなどと記憶をよみがえらせながら試合を観戦した。7回の演奏も「いざゆけ若鷹軍団」ではなく「南海ホークスの歌」だった。
 この日、甲子園球場は平日のナイターにもかかわらず、今季最多の観客動員数を記録した。阪神ファンも含めて、関西の野球ファンは「南海」が帰ってくることを待ち望んでいたようだ。

 この南海ユニホームを見るチャンスはあと2回。8月3日と4日のオリックス戦(京セラドーム)がある。生誕の地、大阪で「南海ホークス」が躍動する。今から待ち遠しいファンも多いだろう。
 ただ、個人的には福岡でも見たかった。特に7月15日と16日の埼玉西武戦(ヤフードーム)では、埼玉西武が「西鉄ライオンズ復刻ユニホーム」を着用する。かつての「南海 vs. 西鉄」はパ・リーグを代表する黄金カードだった。その再現がかなえばファンはもっと盛り上がったのに、と思う。

<了>
  • 前へ
  • 1
  • 次へ

1/1ページ

著者プロフィール

 1978年8月18日生まれ。熊本県出身。法政大学在学時に「スポーツ法政新聞」に所属しマスコミの世界を志す。2002年卒業と同時に、オフィシャル球団誌『月刊ホークス』の編集記者に。2004年8月独立。その後もホークスを中心に九州・福岡を拠点に活動し、『週刊ベースボール』(ベースボールマガジン社)『週刊現代』(講談社)『スポルティーバ』(集英社)などのメディア媒体に寄稿するほか、福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルメディアともライター契約している。2011年に川崎宗則選手のホークス時代の軌跡をつづった『チェ スト〜Kawasaki Style Best』を出版。また、毎年1月には多くのプロ野球選手、ソフトボールの上野由岐子投手、格闘家、ゴルファーらが参加する自主トレのサポートをライフワークで行っている。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント