孤独な老将は夢を見る

小宮良之

監督就任以降、さまざまな困難を乗り越えて迎えたユーロ本大会で、アラゴネスはどのような采配を振るうのだろうか 【Getty Images/AFLO】

 6月29日。ウィーンには霧のような雨が降りしきっていた。ベンチから飛び出した老将は、ぬれ鼠(ねずみ)になりながら選手たちに指令を送った。しわがれた声はスタジアムの喧噪(けんそう)でかき消され、彼自身も、選手の耳には届くまいとあきらめていたが、それでもじっとしているよりはマシだった。ふと気付くと、指先が震えていた。体が冷えたのか、それとも武者震いなのか。

 もう少しだ、ここをしのげばスペインは欧州の王になる!
 白くなった髪を左手でなでながら、老将は口元でつぶやいてみた。口にすることで事実だと認識したかった。敵はドイツ。雨脚が強くなってきたスタジアムの電光掲示板には、FINALという文字が浮かび、1−0というスコアが表示されていた。彼が率いるチームは、プレミアリーグに渡り一皮むけた新エース、フェルナンド・トーレスのゴールでリードし、栄冠まであと一歩というところだった。

 ユーロ(欧州選手権)2008、スペインは“チクタク”と時計のリズムを刻むような小気味いいパスワークでグループリーグを順当に勝ち進んだ。ロシア戦は堅さが目立ちドローに終わったものの、スウェーデン、ギリシャを豪快に撃破。決勝トーナメントではオランダを破ってベスト8の壁を壊し、準決勝では堅守を誇るイタリアを蹴散らし、決勝で、下馬評通りに勝ち上がってきたドイツに挑んでいた。

 老将は、「11人対11人なら最後はドイツが勝つ」とリネカーが残した言葉をふと思い出し、不吉な気分になったが、あの若造にフットボールの何が分かる、と舌打ちで打ち消した。監督生活30年以上、プロフットボールの酸いも甘いもかみ分けてきたつもりだった。勝利は自らの手でもぎ取るしかない。それは分かり切ったことだった。彼の眼前では、スペインが自慢のパスワークでドイツを翻弄(ほんろう)し続けていた。

 後半、ロスタイムに突入。勝利は目の前に迫っていた。
 油断だったのか、運命だったのか。
 ドイツの強引ともいえるパワープレーから、ヘディングでスペインDFが競り負けると、こぼれ球を強烈なシュートでたたき込まれた。うなだれるスペイン陣営。老将は何か手を打たなければと狼狽(ろうばい)し、背筋に嫌な汗を感じた。ラウル、ボージャンのどちらかがいれば、との詮無き思いが頭をかすめると、頭の奥に痛みが走り、瞬間、目の前の光景がぼんやりと鈍った――彼は、グループリーグの初戦をシミュレーションしている間に、うとうとと眠りについてしまったことに気付いた。

「俺も焼きが回ったのか」
 今夏、70歳になるスペイン代表監督、ルイス・アラゴネスは苦笑を浮かべると、「本当の俺なら、ラウルやボージャンの不在にうろたえることはない。絶対に優勝トロフィーを手にしている」といつものように強気に一人ごちた。

無敵艦隊の船底に刻まれた“亀裂”

 この原稿、さまざまな資料や情報を元にしているが、完全なるフィクションである。事実として読み進めた人がいたら申し訳ないが、今回コラム執筆依頼を受け、スペイン優勝展望を書こうとしたが筆は進まなかった。スペインで数年間生活し、多くの取材を積み重ね、さらに大きな国際大会のたびにスペイン代表に裏切られてきた人間としては、どうせふがいない姿をさらけ出すはず、と冷ややかに見てしまうのだ。

 そこで、せめて虚構の世界でうたかたの夢をと思ったが、フィクションでさえも結末には不穏な影が――。
 過去20年間、ビッグトーナメントを前にして優勝候補の一角と目され、日本では無敵艦隊と畏怖(いふ)されるスペインだが、現実は甘くない。毎回脆(もろ)さを印象づけ、“ベスト8の壁”に阻まれ、失意のうちに大会を去っている。そして正直に白状すれば、僕は「今大会もベスト8の壁を破れない」と半ば確信している。

 確かにスペインの戦力は実力的に群を抜く。
 まず守備陣は欧州屈指を誇る。聖なる守護神の称号を持つカシージャス、そして“闘牛”を思わせるパワーを誇るSBセルヒオ・ラモス、強靱(きょうじん)なメンタルでディフェンスラインを統率するCBプジョル。中盤はまさに豪華絢爛(けんらん)で、シャビ、イニエスタ(共にバルセロナ)、セスク(アーセナル)、シルバ(バレンシア)で組むカルテットは、“クワトロ・フゴーネス”(4人の創造者)と称賛される。バックアッパーのカソルラ(ビジャレアル)、デ・ラ・レッド(ヘタフェ)もワンプレーで局面を変えられるMFだ。

 前線には、リバプールでゴールを量産したフェルナンド・トーレスと、マジョルカのエースでリーガ・エスパニョーラ得点王に輝いたグイサを擁する。二人は元FWのアラゴネスが教えを施した門弟で、それぞれアトレティコ・マドリー、マジョルカでゴールゲッターとしての薫陶を受けている。チームの不振と故障に引きづられて絶好調とは言えないが、ビジャの決定力は断トツ、第4FWとして指名を受けたセルヒオ・ガルシアはスピードに優れ、切り札的存在として敵を脅かす。ラウル、ボージャンらの不在を嘆く必要もあるまい。

 無敵艦隊という異名がうなずける顔ぶれのスペイン代表だが、実は勇壮な戦艦の船底には、戦う前から“亀裂”が生じてしまっているのだ。
「アルゼンチン人選手にとって代表のユニホームを着ることは特別な意味があり、死ぬ気で戦うメンタリティーがある。技術、体力などはもちろん必要だが、最後にものを言うのは代表の誇りだと思っているから。しかるに、スペイン人選手は代表よりもクラブでの活躍を優先する。考え方のギャップには驚いた」
 そう証言したのは、元アルゼンチン代表のCBアジャラである。同じような“ギャップ”を、リーガでプレー経験のある各国代表選手も口にしている。

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著者プロフィール

1972年、横浜市生まれ。2001年からバルセロナに渡り、スポーツライターとして活躍。トリノ五輪、ドイツW杯などを取材後、06年から日本に拠点を移し、人物ノンフィクション中心の執筆活動を展開する。主な著書に『RUN』(ダイヤモンド社)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)、『名将への挑戦状』(東邦出版)、『ロスタイムに奇跡を』(角川書店)などがある。

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