孤独な老将は夢を見る
監督就任以降、さまざまな困難を乗り越えて迎えたユーロ本大会で、アラゴネスはどのような采配を振るうのだろうか 【Getty Images/AFLO】
もう少しだ、ここをしのげばスペインは欧州の王になる!
白くなった髪を左手でなでながら、老将は口元でつぶやいてみた。口にすることで事実だと認識したかった。敵はドイツ。雨脚が強くなってきたスタジアムの電光掲示板には、FINALという文字が浮かび、1−0というスコアが表示されていた。彼が率いるチームは、プレミアリーグに渡り一皮むけた新エース、フェルナンド・トーレスのゴールでリードし、栄冠まであと一歩というところだった。
ユーロ(欧州選手権)2008、スペインは“チクタク”と時計のリズムを刻むような小気味いいパスワークでグループリーグを順当に勝ち進んだ。ロシア戦は堅さが目立ちドローに終わったものの、スウェーデン、ギリシャを豪快に撃破。決勝トーナメントではオランダを破ってベスト8の壁を壊し、準決勝では堅守を誇るイタリアを蹴散らし、決勝で、下馬評通りに勝ち上がってきたドイツに挑んでいた。
老将は、「11人対11人なら最後はドイツが勝つ」とリネカーが残した言葉をふと思い出し、不吉な気分になったが、あの若造にフットボールの何が分かる、と舌打ちで打ち消した。監督生活30年以上、プロフットボールの酸いも甘いもかみ分けてきたつもりだった。勝利は自らの手でもぎ取るしかない。それは分かり切ったことだった。彼の眼前では、スペインが自慢のパスワークでドイツを翻弄(ほんろう)し続けていた。
後半、ロスタイムに突入。勝利は目の前に迫っていた。
油断だったのか、運命だったのか。
ドイツの強引ともいえるパワープレーから、ヘディングでスペインDFが競り負けると、こぼれ球を強烈なシュートでたたき込まれた。うなだれるスペイン陣営。老将は何か手を打たなければと狼狽(ろうばい)し、背筋に嫌な汗を感じた。ラウル、ボージャンのどちらかがいれば、との詮無き思いが頭をかすめると、頭の奥に痛みが走り、瞬間、目の前の光景がぼんやりと鈍った――彼は、グループリーグの初戦をシミュレーションしている間に、うとうとと眠りについてしまったことに気付いた。
「俺も焼きが回ったのか」
今夏、70歳になるスペイン代表監督、ルイス・アラゴネスは苦笑を浮かべると、「本当の俺なら、ラウルやボージャンの不在にうろたえることはない。絶対に優勝トロフィーを手にしている」といつものように強気に一人ごちた。
無敵艦隊の船底に刻まれた“亀裂”
そこで、せめて虚構の世界でうたかたの夢をと思ったが、フィクションでさえも結末には不穏な影が――。
過去20年間、ビッグトーナメントを前にして優勝候補の一角と目され、日本では無敵艦隊と畏怖(いふ)されるスペインだが、現実は甘くない。毎回脆(もろ)さを印象づけ、“ベスト8の壁”に阻まれ、失意のうちに大会を去っている。そして正直に白状すれば、僕は「今大会もベスト8の壁を破れない」と半ば確信している。
確かにスペインの戦力は実力的に群を抜く。
まず守備陣は欧州屈指を誇る。聖なる守護神の称号を持つカシージャス、そして“闘牛”を思わせるパワーを誇るSBセルヒオ・ラモス、強靱(きょうじん)なメンタルでディフェンスラインを統率するCBプジョル。中盤はまさに豪華絢爛(けんらん)で、シャビ、イニエスタ(共にバルセロナ)、セスク(アーセナル)、シルバ(バレンシア)で組むカルテットは、“クワトロ・フゴーネス”(4人の創造者)と称賛される。バックアッパーのカソルラ(ビジャレアル)、デ・ラ・レッド(ヘタフェ)もワンプレーで局面を変えられるMFだ。
前線には、リバプールでゴールを量産したフェルナンド・トーレスと、マジョルカのエースでリーガ・エスパニョーラ得点王に輝いたグイサを擁する。二人は元FWのアラゴネスが教えを施した門弟で、それぞれアトレティコ・マドリー、マジョルカでゴールゲッターとしての薫陶を受けている。チームの不振と故障に引きづられて絶好調とは言えないが、ビジャの決定力は断トツ、第4FWとして指名を受けたセルヒオ・ガルシアはスピードに優れ、切り札的存在として敵を脅かす。ラウル、ボージャンらの不在を嘆く必要もあるまい。
無敵艦隊という異名がうなずける顔ぶれのスペイン代表だが、実は勇壮な戦艦の船底には、戦う前から“亀裂”が生じてしまっているのだ。
「アルゼンチン人選手にとって代表のユニホームを着ることは特別な意味があり、死ぬ気で戦うメンタリティーがある。技術、体力などはもちろん必要だが、最後にものを言うのは代表の誇りだと思っているから。しかるに、スペイン人選手は代表よりもクラブでの活躍を優先する。考え方のギャップには驚いた」
そう証言したのは、元アルゼンチン代表のCBアジャラである。同じような“ギャップ”を、リーガでプレー経験のある各国代表選手も口にしている。