福留の舞台 リグレーの“名物”
美しい外野フェンスが生み出す二塁打
フェンウェイ・パークから遅れること2年、リグレー・フィールドが誕生した1914年は、日本で言えば大正3年。文豪、夏目漱石が名作「こゝろ」を発表し、赤レンガの東京駅舎が完成した年だ。ただし、当時はカブスの本拠地ではなく、今はなきフェデラル・リーグのシカゴ・ホエールズのホームグラウンド。名前も「ウィーグマン・パーク」というものだった。
1916年からはカブスが使用するようになり、「カブス・パーク」という名称を経て当時のオーナー、ウィリアム・リグレーの名を冠した現在の球場名に改められたのが27年のこと。その後、オーナーシップは地元紙を発行する「トリビューン・カンパニー」に移ったが、「リグレー」の名は今も変っていない。
古色蒼然(そうぜん)としたたたずまいのこの球場で目を引くのが、ツタで覆われた外野フェンスだ。この時期になると、まだ肌寒い開幕時には枯れたままだったツタも青々と生い茂ってきて、見た目にも実に美しい。だが、このフェンスが時として珍プレーを生み出すことになる。
フェンスに達した打球がしばしばツタに絡まって止まり、場合によっては深くもぐり込んでしまうこともあるからだ。公認野球規則6・09(f)に「フェアボールが(中略)フェンス上のつる草を抜けるか(中略)フェンスのつる草に挟まって止まった場合には、打者、走者ともに二個の進塁権が与えられる」とあるのはこのためで、こうした場合には外野手が両手を上げて「エンタイトル・ツーベース」をアピールすることになっている。
野球は太陽の下でやるもの?
これは前述のウィリアム・リグレー・オーナーからチームを受け継いだ息子のフィリップが、「野球は太陽の下でやるもの」との信条を貫いた名残りだと言われている。だが、実際には35年のレッズから始まったナイター化の流れを受け、フィリップも41年には照明設備の建設に動いたことがあった。ところが着工直後に始まった太平洋戦争のため、鉄などの物資を軍に提供せざるを得ない状況になり、工事を断念。その後、フィリップも方針を転換したと伝えられている。
また、リグレー・フィールドの立地条件も、長らくナイターが行われない理由の1つになっていた。球場が住宅街の真ん中にあるため、市の条例によってナイトゲームの開催が禁止されていたのだ。それでも時代の流れには逆らえず、81年にチームを買収したトリビューン・カンパニーはナイター設備の導入を検討。これに反対する声も多かったものの、シカゴ市議会が夜間試合の開催を禁止する条例を廃止したのを受け、今から20年前の88年8月8日に開場75年目にして初のナイトゲームが挙行された。もっとも、そのころは故人となっていたフィリップが天から涙雨を流したのか、この試合は4回途中で降雨ノーゲーム。翌日、改めて「初ナイター」が開催されたのだった。
なお、周辺住民に対する配慮から現在もリグレー・フィールドにおけるナイターの数は条例で制限されており、それが圧倒的に多いデーゲームの数につながっている。
試合を左右する強風
これは結果に如実に表われており、昨年のカブスは打者にとって「向かい風」だった42試合で1試合平均の本塁打は0.88本、4.69得点だったのに対し、「追い風」の20試合では平均1.30本、得点は6.50点にも達していた(その他「横風」のゲームもあり)。今季は現地時間5月11日現在で「向かい風」ゲームは12試合あり、平均本塁打1.08本、5.75得点だが、「追い風」の4試合では1.5本、9.50得点と、ただでさえ強力な打線が風の後押しでさらに威力を増し、この4試合は全勝となっている。
傾向としては4、5月などの比較的気温の低い時期は「向かい風」が多いが、暖かくなってくると「追い風」が多くなると言われており、ここまで2本塁打の福留も今後は風の援護を受けてオーバーフェンスを増やしていきそうだ。
その他、いまだに手動式のスコアボードや、球場外のビルに設けられた私設観覧席、さらに7回表終了後に「テイク・ミー・アウト・トゥー・ザ・ボール・ゲーム」を歌う日替わりゲストなど、名物には事欠かないリグレー・フィールド。ファンの合言葉「It’s Gonna Happen」を日本語に誤訳したという「偶然だぞ」ボードがその中に加わりそうだったが、これが「絶対やれる」ボードに変わったことに胸をなで下ろしたのは、筆者だけではないはずだ。
<了>
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