ユース“代表”強化 そして北京五輪へ 中田徹の「オランダ通信」

中田徹

軽んじられていたユース代表チームの強化

2005年ワールドユースで日本人の度肝を抜いたクインシー。地元開催の大会は成功を収め、オランダ国民のユース代表への見方が変わった 【Photo:PICS UNITED/AFLO】

 僕がオランダに移り住んだのは1998年のこと。早いものでもう10年近くになる。この間オランダのサッカー界はいろいろなことがあったが、一番大きな変化を見せたのはユース年代の代表チームの人気急上昇と実力アップだろう。

 2005年にオランダはワールドユース(現U−20ワールドカップ)を地元開催した。このとき予選免除のおかげでオランダは、1983年メキシコ大会以来久しぶりのワールドユース出場を果たしたのである。
 オランダは若手育成に関して世界的に定評のある国だが、その実態はクラブレベルでの強化であって、代表チームに関してはそれほど真剣に取り組んでいなかった。そこを何とかしようとKNVB(オランダサッカー協会)はかつての大スター、ルート・フリットをユース代表の監督にした。しかしフリットはフェイエノールトからのオファーを受けると、KNVBとの契約をあっさりと破棄してしまった。オランダではユース代表の監督の座はその程度のものだったのだ。

 ヘーレンフェーンで長らく指導者として活躍した名伯楽フォッペ・デ・ハーンはクラブを勇退し、引退生活を楽しんでいたが、オランダ・ユース世代代表チームの軽んじられた状況を憂慮。現場へ緊急復帰を果たした。これが2004年のこと。目先の目標は2005年、地元ワールドユースの成功。最終的な目標は2008年北京五輪の参加資格を得ることだった。
 デ・ハーンは各クラブの協力を得ながら最強チームを作ろうとした。その一方で地元開催にもかかわらず、オランダメディアはなかなか盛り上がらなかった。
 状況が一転したのが2005年3月に行われた抽選会。FIFA(国際サッカー連盟)からブラッター会長が来訪し、世界各国からメディアも取材に来た。その華やかな雰囲気にオランダ人は「やはりFIFA開催の公式大会は違う」と認識を改めた。

 ワールドユースは大成功だった。クインシー(当時アーセナル、現スパルタク・モスクワ)が開幕試合で日本DFを抜きまくった姿にオランダ人も大興奮。オランダは準々決勝のナイジェリア戦で12巡のPK合戦の末敗れたが、その後もメッシ(アルゼンチン)やミケル(ナイジェリア)といったスターが大会を盛り上げた。
 大会期間中は毎晩35分の特番が組まれ、その日のハイライトだけでなく、オランダ人選手とのインタビューや、各国代表チームの合宿所潜入リポートもあった。『オランダ版・熱闘甲子園』でオランダ人は寝不足に。「オランダ人は『ワールドユース・ウイルス』にかかった」と言われるほどテレビにくぎ付けになった。そしてこのときリポーターを務めたソフィーは、『オランダ版・白石美帆』として勝利の女神になったのである。
 日本人は1979年のワールドユースを地元開催したことによってマラドーナ、ラモン・ディアス(共にアルゼンチン)、ロメロ(パラグアイ)、ソ連代表チームといった『世界』との遭遇を果たした。オランダ人は2005年のワールドユース開催によって『ユース世代』というスーパーコンテンツを手に入れたのである。

 2005年、ペルーで行われたU−17世界選手権でオランダは3位になった。そして2006年、オランダはポルトガルで行われたU−21欧州選手権で見事に初優勝を果たした。この大会はグループリーグの最終日を除き全試合生中継され、決勝戦のオランダ対ウクライナ戦は372万人がテレビを見た。オランダの人口が1600万人であることを考えると驚異的な数字だ。もはやオランダでは「たかがユース」という偏見はなくなったと言えよう。

五輪におけるサッカーの立場は?

 それにしてもだ。オランダサッカー界の五輪をめぐる環境の変わり具合は、一体何なのだろう。もしかするとフェイエノールトのオファーがなければ、今もなおU−21代表を率いて北京五輪を目指していたかもしれないフリットは、2004年のアテネ五輪が行われたときフェイエノールトの監督だった。当時チームの主力選手だった小野伸二(現・浦和レッズ)はU−23日本代表のオーバーエージプレーヤーとしてアテネ大会参加に重きを置き、オランダリーグの開幕戦を欠場したが、フリットは「まったく理解できない」という表情でこう言った。
「五輪は私も好きだからテレビで見るけれど、でもそれは陸上とか水泳といった競技の大会。サッカーにはワールドカップ(W杯)があるし、テニスにはウインブルドンのような大会がある。だから五輪はトップサッカー選手のための大会じゃないんだ」

 実際には陸上にも水泳にも単独競技のビッグイベントはあるのだが、オランダサッカー界の五輪に対する考えはこの程度のものだった。日本同様、オランダは“メダル狂”の国で、メダルの獲得個数に血道をあげているが、そんなオランダスポーツ界でサッカーは完全に浮いていた。
 スケート、自転車、ホッケーなどオランダにもたくさんの人気スポーツがあるが、その中でも断然ナンバーワンの人気を誇るのは間違いなくサッカー。だからトップアスリートたちの多くはサポートするサッカークラブをもっているが、スポーツマンとしてねたみもある。

 サッカー選手は国内リーグで活躍するだけで、富も名誉も得ることができる。しかし例えばオランダのバレーボール男子代表は1996年アトランタ五輪で金メダルを獲った強豪だが、国内リーグはかつて破産してしまったのだ。こうした環境格差が背景となって年末のスポーツ・ガラ(祝賀)・パーティーでは、いくらその年にサッカーチームが活躍しても、年間最優秀賞は他競技のチームや選手に同情票が集まり、大賞がサッカーチーム・選手に渡らない傾向がある。
 しかしKNVBは他競技と足並みをそろえ、2007年のU−21欧州選手権(五輪予選を兼ねていた)の地元開催を実現し、北京五輪出場を果たそうとした。2005年のワールドユース成功はUEFA(欧州サッカー連盟)に対して大きなアピールとなり、オランダは簡単にU−21欧州選手権の開催権を認められた。

 サッカーにおいて五輪はレベルの低い大会――そう口にはしていても、やはり各競技で金メダル、銀メダル、銅メダルを争う姿に、オランダのサッカー選手もスポーツマンとしてあこがれはあったのだろう。マドリーでホッケーの世界選手権が行われたとき、ファン・ニステルローイ(レアル・マドリー)はオランダチームの応援に駆けつけたが、そのとき「自分も五輪に出たい」と言った。それが口火となってセードルフ(ACミラン)、ファン・ボメル(バイエルン・ミュンヘン)も五輪出場に前向きな姿勢を見せた。当時彼ら3人はA代表のファン・バステン監督と折り合いが悪く、多少の当て付けもあった気もするが、本気度も高かった。

1/2ページ

著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント