「バリーの時代」がやって来た 東本貢司の「プレミアム・コラム」

東本貢司

イングランドに沸き起こった「バリー礼賛」

イスラエル戦で2アシスト、ロシア戦でもオーウェンの先制点の起点となったバリー(写真左) 【 (C)Getty Images/AFLO】

 ギャレス・バリー。「救世主」と呼ぶにはおよそ唐突な響きがあり過ぎて、大方のイングランドファンも当惑を隠せないかもしれない。そして、たかが代表戦2試合で「何を大げさな」と(内心、かなりの“したり顔”で浮かれている年来のバリーファンの筆者などは)鼻で笑われるのがオチだろうか。
 そうかもしれない。「雑音には耳を貸さない。チームを決めるのは私だ」(その通り)と譲らないスティーヴ・マクラーレンの腹一つで、あっさりとネジが巻き直される危険性はまだ残っている。故障が癒えたランパードやハーグリーヴズにあらためて“敬意”を払うべしとの“インスピレーション”が彼に働けば、バリーの地位設定は、少なくともダウニング並みに落とされてしまうだろう。

 だが、現実はその可能性を限りなく薄くする方向に動いている。アストン・ヴィラの将、マーティン・オニールが絶賛し(代表定着を)確信するのは当然としても、並み居る往年の名手、いわゆる「レジェンド」たちががぜん声をそろえて「バリー礼賛」に傾いている。不幸にも、この日本ではユーロ(欧州選手権)2008予選でイスラエル、ロシアを撃破したイングランド代表のパフォーマンスを目撃するのはかなわなかったが、現地から発信されたさまざまなリポート、評論を読む限り、バリーの存在感、いや「バリーあってこその二幕の快勝劇」に対する評価が群を抜いて多いのである。

 こんな“推測”もできる。「耳を貸さないフリ」をしたマクラーレンだったが、実は、イスラエル戦で初めてバリーと中盤センターを組んだジェラードの発言に、いたく揺さぶられていた。「バリーとはほんの2、3度練習で組んだ程度だったのに、実戦でやってみると長年のパートナーのように息が合ってやりやすかった」
 例えば、あえて、イスラエルのふがいない戦いぶりにかんがみて、マクラーレンはまだ「半信半疑」だったとしよう。現に、ロシア戦を前にして彼は「(イスラエル戦の)メンバーを少し“いじる”ことになると思う」と漏らしていたこともある。ところが、運はまるで予定通りのようにバリーにほほ笑んだ。ランパードのみならず、出場可能と伝えられていたハーグリーヴズまで故障回復が思わしくなく、リタイアを余儀なくされたからだ。
 つまり、先入観抜きの公平な観察法にのっとれば、バリーの運とは、「言い訳をする必要」がなくなったマクラーレンが、迷うこともなく「王道」、すなわち「勝っているチームはいじらない」という常識に立ち戻ることができたゆえだとも考えられる。

マクラーレンは「このとき」を待っていた?

 しかし、事の本質は本当にそれだけのことだったのだろうか。事後のレジェンドたちの物言いに後押しされるまでもなく、筆者には別の考え方がある。それも二通り。
 第一の仮説。イスラエル戦後のマクラーレンは「たとえランパードやハーグリーヴズが使えたとしても、バリーで行く決意を固めていた」。そこにかかわってくるのが、ほかでもない、ロシアの監督、フース・ヒディンクの存在だ。
 お約束通りに「イングランド、イスラエルに完勝」を受けたヒディンクのコメントは、メディアをひとしきり騒がせた。かいつまんで言えば「油断は禁物だが勝算はある」。それは、極端に失点の少ない“わが”堅実なるロシア相手に「さて、“新人”のバリーと“出戻り”のヘスキーをスクランブル起用したチームで大丈夫なのかな?」と、暗に挑発したようにも受け取れた。
 そこへ、マクラーレンの「いじる」発言である。妙に「とってつけたような」気がした。作為的に聞こえた。その文面を目にしたとたんにピンとくるものがあった。これは「煙幕」もしくは「ブラフ(はったり)」では?
 なんとなれば、ヒディンクこそエリクソン退任決定後の次期イングランド代表監督にもっとも近い一人とうわさされていた人物だったのだ。

 果たして、イスラエル戦とまったく同じ布陣を敷いたイングランドは圧勝した。そして、バリーの“司令塔ぶり”はますます輝きを増すばかりだった。してやったり――。
 だが、筆者の目にはさらに“奥の深い”仮説その二がちらついて仕方がない。そう、マクラーレンは当の昔に「このとき」を待っていたのではないか。アーリークロスのダウニングとは資質の点で異なるバリーの使いどころを、ずっと以前から模索していたのではなかったか。いや、それを言うなら、近年歴代の代表監督はおしなべて、バリーが気になっていたと思える節があるのだ。

 思えば、ギャレス・バリー個人に限って、イングランド史上初の外国人監督、スヴェン・ゴラン・エリクソンの就任は「不幸な出来事」だったと言えるかもしれない。当時のバリーはまだ粗削りな面が垣間見えた上に、アストン・ヴィラの戦力バランスの関係でポジションが流動的な状態が続いていた。そのせいか、パフォーマンスに安定感を欠き、故障に悩まされることもたびたびだった。そもそも、ヴィラ自体が不振で関心の埒外(らちがい)にあったとも言える。つまり、さまざまな事情で“それ以前”を知らないエリクソンの目に止まりにくい状況にあったというわけだ。
 しかし、フレンドリーマッチ1試合のみの“エリクソンへのつなぎ役”ピーター・テイラーの前任者ケヴィン・キーガン(1999年3月〜2000年10月)は違った。もしもキーガン政権がもう少し永らえていたならば、“大器”バリーのひのき舞台は、もっと早く巡っていたに違いないと思えるのである。

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著者プロフィール

1953年生まれ。イングランドの古都バース在パブリックスクールで青春時代を送る。ジョージ・ベスト、ボビー・チャールトン、ケヴィン・キーガンらの全盛期を目の当たりにしてイングランド・フットボールの虜に。Jリーグ発足時からフットボール・ジャーナリズムにかかわり、関連翻訳・執筆を通して一貫してフットボールの“ハート”にこだわる。近刊に『マンチェスター・ユナイテッド・クロニクル』(カンゼン)、 『マンU〜世界で最も愛され、最も嫌われるクラブ』(NHK出版)、『ヴェンゲル・コード』(カンゼン)。

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