トルコ代表、因縁のギリシャ戦で崩壊 現実となった最悪のシナリオ
1カ月前の余裕が悲壮に変わる
格下モルドバにまさかの引き分け。因縁のギリシャとの直接対決を前に、トルコ代表には悲壮感が漂った 【 (C)Getty Images/AFLO】
9月のマルタ戦で引き分けた後、トルコ代表のテリム監督が、親しい記者と代表について話した会話の中の一言。まるで「望んでいた」と言わんばかりの笑みを浮かべて話す姿からは、余裕すら感じられた。テリム監督も「10月には首位に立つ」と国民が喜びそうな言葉を並べ、トルコ人は代表がユーロ(欧州選手権)2008に首位で予選突破して、出場することを確信していた。
1カ月前の状況は勝ち点19でギリシャが首位。首位ギリシャに勝ち点2差でトルコとノルウェーが並んでいた。ただ、ノルウェーよりも1試合消化試合が少ないトルコは、有利な状況だった。悪いパフォーマンスを続けて勝てない時期が続き、国民の中でテリム監督への不安が蓄積し始めたにもかかわらず、「難しいのが大好き」と言えるくらいの余裕は確実にトルコ人の中にあった。しかし、1カ月後に状況は一転する。
今月13日にアウエーで行われた格下モルドバとの対戦で、まさかの引き分け。この結果、ボスニア・ヘルツェゴビナから確実に勝利を手にしたギリシャには勝ち点差を広げられ、この日に試合がなかったノルウェーに対しても、差を広げるチャンスを逃した。計算外の勝ち点を落とし、本大会出場へ黄信号が点滅する危険地域に踏み込んでしまったトルコは、次の試合で勝たなければ、ノルウェーに2位の座も受け渡しかねない状態に陥った。そして1カ月前には想像し得ない困難な状態で迎えた試合が、17日に行われた首位ギリシャとの一戦だった。
代表チームに襲い掛かるさまざまなプレッシャー
例えば今予選の前半戦のヤマ場、3月24日にギリシャで行われた試合はアウエーのトルコが4−1で大勝した。ギリシャにとってこの試合の翌日3月25日は、オスマン帝国から独立を果たしたことを祝う独立記念日であった。その特別な日を控えながらトルコに完敗したことは、ギリシャ人にとって相当な屈辱だったはずだ。逆に大勝したトルコはお祭り状態だった。翌日の新聞は一面で「ギリシャ人にオスマンのキック!」「アテネの征服者」「記念日おめでとう、ギリシャ人」などなど、歴史的な勝利をギリシャへの罵倒(ばとう)で飾る言葉で祝った。トルコ人がどれだけギリシャを意識しているか、これらの言葉から容易に想像できる。トルコにとってギリシャという存在は、過去の歴史から絶対に負けることが許されない相手だ。過去の対戦成績は6勝2敗2分けと圧倒しており、公式戦に至っては無敗で、トルコ人のギリシャに対する気持ちを考えると偶然ではない気がしてくる(※国際サッカー連盟による記録。トルコ国内の公式記録では6勝2分け)。
そして今回のホームで迎えたギリシャ戦は、国民感情的にも、ユーロ本大会出場を果たすためにも、勝たなければならない試合となった。世界中に悪い印象を与え、重い制裁を下された2006年ワールドカップ予選プレーオフでのスイス戦と同じように、トルコ全土が高いテンションになる条件がそろった状況でもあった。しかし、今回のギリシャ戦は少し様子が違った。対ギリシャへの感情の声や、報道は少なかったのだ。
なぜなら、7日に反政府武装組織PKK(※2)との戦闘でトルコ軍兵士の13人が戦死した事件が起こり、国民の関心はすべてこの反PKK、反テロという方向に向かっていたためだった。スポーツ紙は代表に「この国を守るために戦死した兵士たちのため、代表が黒いユニホームを着るべき」というキャンペーンを行い、モルドバ戦では代表が国歌斉唱時に敬礼ポーズするなど、対ギリシャという感情よりも「トルコ全体がひとつにならなければならない」という感情が強まった。トルコの象徴としてサッカー代表チームが祭り上げられ、戦死した兵士のためにも、国のためにも、ライバルであるギリシャに勝つことを期待された。
こうして、さまざまな期待が重なり、大きなプレッシャーの中でトルコは試合に臨むことになった。
(※1) ギリシャ系住民とトルコ系住民が混在するキプロス。1960年には統治下にあったイギリスからキプロス共和国として独立を果たした。その後民族紛争、ギリシャ軍事政権によるクーデター、1974年のトルコ軍による軍事介入を経て、南北に分断。1983年には、トルコのみが承認する「北キプロス・トルコ共和国」が分離独立を宣言している。
(※2) クルド労働者党。トルコからの分離独立を目指して活動しているが、EU(欧州連合)からはテロリスト集団と認定されている。