10年目左腕・小椋真介の一番うれしかった日

田尻耕太郎

プロ10年目の初勝利

「10年目で、一番うれしい日になりました」
 4月12日の埼玉西武戦(ヤフードーム)、小椋真介がプロ10年目で初勝利を飾った。1軍に昇格した前日(11日)に好投を見せると、この日は1点を追う6回表2死三塁という大事な場面でマウンドに送られた。左打者の栗山巧を146キロの速球でファーストゴロに打ち取りピンチを救った。さらにもう1イニングをゼロで抑えると、7回裏に小久保裕紀が勝ち越し3ラン。
 8回と9回は「ベンチで祈っていました(笑)」。埼玉西武の最後の打者がライトフライに倒れると、一塁側ベンチでは勝ち星がついた小椋を中心に輪ができた。感動のハイタッチ。そしてこちらも初めてのお立ち台も経験した。
「緊張するかなと思ったけど、めっちゃ気持ちよかったです」
 ベンチ裏でも笑顔、笑顔。逆に球団オフィシャルのレポーターやスタンドのファンが目を潤ませていた。かくいう僕も彼のお立ち台に胸が熱くなった。

長かった9年間の道のり

 この日が来るまで、本当に長かった。期待され続けた9年間。それは「11」という背番号を見れば明らかだ。しかし、それを裏切り続けた日々だった。
 入団2年目の2000年には「ポスト工藤」といわれた。前年にチームは初優勝。その原動力となった工藤公康(現横浜)がFAで巨人に移籍し、その穴埋めを期待されたのが当時まだ19歳の小椋だった。その年の春季キャンプは注目の的。小椋はひたすら投げた。やがてひじが痛くなった。しかし、そんなことを口に出せる状況ではなかった。そのままオープン戦の開幕投手を務めたが、めった打ちを食らった。
 日本人左腕では希少な150キロ超のスピードボールを投げる。しかし、コントロールが定まらず首脳陣の信頼を得られなかった。そして03年、今度は大けがに見舞われる。左ひじのじん帯を断裂。翌年はリハビリのために2軍のマウンドにすら立つことができなかった。しかも復帰当初は自慢の速球も影を潜め、オフが来るたびに不安な思いを募らせた。
 それでも昨季には復活の兆しを見せていた。5年ぶりの1軍マウンドを経験し7試合に登板した。そして昨秋のキャンプ中に行われた練習試合で、直球の最速は150キロを計測した。

白星とともに得た信頼

 10年目で初めて手にしたウイニングボール。それは両親にプレゼントするという。
「一番心配をかけたのは親。どんなときも『ガンバレ』とだけ言い続けてくれました」
 試合終了からすぐにメールが届いた。短い祝福の言葉には「やっとソフトバンクの一員になれたね」と添えられていた。
「やっぱり親が一番よく分かっていますよ」
 小椋は照れ笑いを浮かべた。

 小椋が初めての白星とともに手にしたのは、首脳陣からの大きな信頼だった。11日から15日のオリックス戦(京セラドーム)まで4連投。そして、プロ初セーブもマークした。
 プロ10年目でことし28歳。つまり松坂大輔ら「黄金世代」の一員だ。ホークス投手陣にも杉内俊哉、和田毅、新垣渚という顔ぶれがそろう。
「取り残され過ぎた。今から頑張って追いつきたい」
 28歳はプロ野球選手にとって一番脂が乗る時期といわれる。「一番うれしい日」はまだこれから何度も塗り替えられるに違いない。

<了>
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著者プロフィール

 1978年8月18日生まれ。熊本県出身。法政大学在学時に「スポーツ法政新聞」に所属しマスコミの世界を志す。2002年卒業と同時に、オフィシャル球団誌『月刊ホークス』の編集記者に。2004年8月独立。その後もホークスを中心に九州・福岡を拠点に活動し、『週刊ベースボール』(ベースボールマガジン社)『週刊現代』(講談社)『スポルティーバ』(集英社)などのメディア媒体に寄稿するほか、福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルメディアともライター契約している。2011年に川崎宗則選手のホークス時代の軌跡をつづった『チェ スト〜Kawasaki Style Best』を出版。また、毎年1月には多くのプロ野球選手、ソフトボールの上野由岐子投手、格闘家、ゴルファーらが参加する自主トレのサポートをライフワークで行っている。

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