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コラム〜水上の若きサムライたち〜

独特のプロペラ理論を武器に戦う 中村亮太(前編)

中村 亮太(なかむら りょうた)選手

2012年8月1日更新 文:黒須田守(BOATBoy) 写真:中尾茂幸(BOATBoy)

新プロペラ制度の導入

レースへの思いは熱い
レースへの思いは熱い

 ボートレース界では、この春から「新プロペラ制度」が導入された。この制度は、簡単に言えば「選手持ちプロペラの廃止」。それまで、レースで使用するプロペラは選手所有となっており、このプロペラがモーターの性能を引き出すうえで大きな要素となるため、選手たちは研究に没頭した。選手たちが実際にレースや試運転などで体感しながら習得していったプロペラに関する理論は、流体力学の権威でさえ舌を巻くもので、最新鋭のコンピュータで導き出したプロペラの形状が、その時にはすでに選手たちが体感と経験で辿り着いていたものだったというほどだった。
 そうしたプロペラの進化は、同時にボートレースの進化にもつながっていったのだが、一方でファンからは「わかりにくい」という声もあがっていた。選手がレース場に持ち込めるプロペラは3枚で、そのなかから選択してレースで使用するわけだが、いったいどのプロペラを使用しているのかファンには伝わりにくかった。しかも、プロペラ交換というアナウンスはあっても、どのプロペラに交換したのかは、まったくわからなかった。プロペラは選手にとっては重大な要素でも、ファンの舟券推理の材料にはほとんどなっていなかったのだ。
 しかも、選手はプロペラ研究に熱を入れるあまり、さまざまなものを犠牲にしなければならなかった。プロペラ加工時に発生する粉塵は呼吸器を冒し、加工時の無理な態勢が腰や膝などの故障にもつながったりした。また、特にトップクラスは月間通算で約3週間ほどレースに参加し、中2日ほどの日程でレース場を渡り歩くため、本来ならオフとなるその2日間をプロペラ作りにあてなければならなかった。家族サービスはままならず、ゆっくり体を休める時間も充分には取れず、かなりの負担を強いられていたわけである。
 そうした弊害の部分を解消するため、選手持ちプロペラが廃止され、プロペラはモーターに備え付けられるものを使用することになった。各モーターに2枚、それもヤマト製とナカシマ製、2つのプロペラメーカーのものを1枚ずつ配備されることになり、選手がヤマトを使用しているのかナカシマを使用しているのか、ファンに完全に伝わることとなったのだ。
 導入されてから数カ月、まだまだ選手もファンも試行錯誤の只中にあるが、この制度がさらにボートレースを面白くし、盛り上げていくことになるだろう。

豪快な走りも持ち味
豪快な走りも持ち味

 そうした時代の変革期、おおいに注目されたひとりが、中村亮太だった。中村はまだSGもGIも制したことはなく、実績でいえば、まだまだこれからの選手である。だが、プロペラ制度が変わると聞いたファンは、もしかしたら選手も、「亮太はどうなってしまうのか」と彼の名前を思い浮かべたに違いない。中村は、独特の理論で導き出された常識破りの形状をもつプロペラを発明して、成績をあげていった。そのプロペラは「亮太スペシャル」と呼ばれ、おおいに話題を呼んだものである。その亮太スペシャルを、新プロペラ制度が始まれば使えなくなるのだ。誰もが亮太の行く末を気にかけたのは無理もないことだ。
 しかし、亮太はどこ吹く風で活躍をつづけ、先のSGオーシャンカップでも存在感を発揮した。むしろ、今後の中村亮太にはさらなる注目が必要になってくるだろう。

 中村亮太は、第86期生として本栖研修所に入所。同期には中野次郎、吉田俊彦らがいて、当時の亮太は変わり者の劣等生だったようだ。教官からの命令に従わないことも頻繁、ようするに問題児であって、退所を突き付けられたことも1回や2回ではなかったようだ。当時の教官は、のちの亮太が大きなレースに出場するようになったときに「あの亮太がここまで来るとは……」と感慨深そうにしていたものだ。
 プロデビューにこぎつけた亮太は、2戦目に早くも初1着。2年後には初優出するなど、早くから素質の一端を感じさせるレースを見せていた。初優勝は、デビューから約3年半後の福岡で飾っており、それからは成績も安定していく。
 05年にはA1級に昇格しているが、その頃から亮太は独自のプロペラ理論を構築し始めている。それがファンの目にも留まったのは、その年の冬。初めてのGI出場となる新鋭王座決定戦を目前にしたころだった。

(後編に続く・・・)8/15(水)更新予定

中村 亮太
中村 亮太 (なかむら りょうた)選手プロフィール

登録番号4070。86期。長崎県出身。1980年11月25日生まれ。O型。

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