踏みとどまれなかった新潟、初のJ2降格 練習からも垣間見えたチームのほころび

大中祐二

04年以来、守ってきたJ1の座だったが……

04年に昇格して以来、14年間J1を舞台に戦ってきた新潟のJ2降格が決まった 【写真は共同】

 航空界に、「ポイント・オブ・ノーリターン」という言葉がある。帰還不能点――。そこを越えてしまうと、もはや出発した地点には引き返せないポイントのことだ。

 2004年に昇格して以来、14年間J1を舞台に戦ってきたアルビレックス新潟の初のJ2降格が決まった。第32節のヴァンフォーレ甲府戦は1−0で勝利したものの、残留を争っていたサンフレッチェ広島がヴィッセル神戸に勝ったためだ。

 いったいどこが、“決定的な地点”だったのだろうか。

 開幕の広島戦こそ引き分けたが、チームは最初から苦しんだ。今シーズン着任したばかりの三浦文丈監督は、10試合指揮を執っただけで成績不振のため辞任。このときチームは1勝2分け7敗の17位で、片渕浩一郎コーチが暫定的に指揮した第11節の浦和レッズ戦を経て、チームの命運は元日本代表FWでもある呂比須ワグナー監督に託された。

 12年シーズン途中までG大阪のコーチを務めた呂比須監督は、その後、母国ブラジルに戻って指導者としてのキャリアを築いてきた。5月15日の就任会見を通訳なしで行った呂比須監督は、新潟がJ1に残留するための目安を勝ち点38とした。それから半年が経ち、第32節を終えての新潟は5勝7分け20敗で勝ち点22。38ポイントには遠く及ばない。

 残留という目的地に到達するための燃料と時間は十分にあったはずだ。だが現実は、就任会見から5日後に行われた第12節の北海道コンサドーレ札幌戦こそ1−0で勝ったが、続くベガルタ仙台戦に1−2で逆転負けを喫すると、クラブワーストタイとなる6連敗。第14節、セレッソ大阪に0−4で大敗して最下位に転落してからは、残留圏はおろか、17位との差も開く一方で、一度も順位を上げることなく降格が決まった。

“早ければ今節にも――”と、J2降格が初めて顕在化した第29節のガンバ大阪戦から3勝1分けと、最後の最後に粘りはした。が、4試合で10ポイントを一気に積み上げながら18位のままだという現実が、取り返しがつかないほど低調だった道のりを物語る。

印象的だったトレーニングでのある光景

磐田戦に向けたトレーニングで現場のコミュニケーション不足が露呈した新潟。続く浦和戦にも敗れ、6連敗を喫した 【(C)J.LEAGUE】

 新潟が踏みとどまるべきタイミングは、夏場にあった。6月終わりのことだ。チームは当時、4連敗中。第17節のジュビロ磐田戦に向けたトレーニングでの光景が忘れられない。

 それは切り替えがテーマの練習メニューだった。3つのグループが攻撃、守備、サポートに分かれて役割を変えつつ、ボールを奪い合う。ところが役割の変わり方に曖昧な部分があり、ついには選手たちの動きもがぱったり止まってしまったのだ。おそらく思考も。

 呂比須監督はいら立ち、日本語で説明するが、損なわれた集中は戻らない。指揮官に早くボール出しするよう命じられる日本人コーチングスタッフも、どのグループにボールを出していいか分からない。つまりは練習のマネジメントに欠陥があり、現場のコミュニケーションに問題があることの証しであった。結局、磐田戦、続く第18節の浦和戦にも敗れ、チームは6連敗する。

 だが、浦和戦から3日後の天皇杯3回戦C大阪戦で、一つの変化があった。試合は2−2で延長戦に突入。ピッチ上でケアを受ける選手の間を歩き回りながら、呂比須監督は日本語ではなく、ポルトガル語で話し続けていた。

 呂比須監督は就任会見にとどまらず、日々のトレーニングや囲み取材、試合後の会見など、通訳を介さず日本語で行ってきた。それが、この時期からトレーニングの戦術的な部分はポルトガル語で伝えるように変わる。現場のコミュニケーションを、より密にするための歩み寄り。呂比須監督にポルトガル語を使うよう提案したのは、クラブの強化部である。

「1つ1つのプレーに対する責任感がない」

日に日に選手たちに焦燥感が深まっていく中、山崎(写真)は練習後に「1つ1つのプレーに対する責任感がない」と口にした 【(C)J.LEAGUE】

 状態が上向かないチームに対し、クラブも手をこまねいていたわけではない。7月までに名古屋グランパスからMF磯村亮太、DF大武峻を完全移籍で、メキシコ2部のカフェタレロス・デ・タパチューラからFWドウグラス・タンキを獲得。8月にはサガン鳥栖からMF小川佳純、FW富山貴光を期限付き移籍で獲得した。

 即戦力クラスを5選手もシーズン途中で補強しなければならないところに、チームとクラブの苦悩が色濃くにじむ。ただでさえ、今シーズンは変化が多い中でのスタートだった。MFレオ・シルバ(現鹿島アントラーズ)、FWラファエル・シルバ(現浦和)ら主力が去り、13選手が加わった(期限付き移籍から復帰した選手をのぞく)チームを当初、率いたのは新任の三浦監督で、これまで新潟の戦力として常に重要な役割を演じてきたブラジル人選手が総入れ替えとなるのは、初めてのことだった。

 そして、夏のチームの大改造である。7月のリーグ中断期間には、場所こそいつもの聖籠(新潟市の隣町)にあるクラブハウスだったが、呂比須監督も「ミニキャンプ」と呼んで意気込む2部練習を連日行った。

 だが、補強、ミニキャンプと満を持して臨んだリーグ再開後の第19節・FC東京戦こそ引き分け、連敗を6で止めたが、翌節から今度は4連敗。交代の意図がピッチ内に伝わらず、選手たちが戸惑うまま落とした試合、勝ち点は1つや2つではない。

 選手たちの焦燥感は深まる一方だった。磐田で降格を経験し、新潟に加入して3年目となる山崎亮平は、8月のある日、練習後にこんな言葉を漏らしている。

「ゲーム形式の練習が多いから、やりながら自分たちで話しながらすり合わせていく必要がある。今日の紅白戦でもミスがたくさん出た。それはこの状況にいるチームの雰囲気とは言えないし、正直、みんな(状況を)分かっているのかな、と感じた。1つ1つのプレーに対する責任感がなく、ただやっているだけ。それでは意味がない。

『試合でやればいいんだろ』というのが、先発組にあった。全員ではないけれど、この状況で、この時期に気持ちを入れてやれていない選手がいる。チャレンジしてのミスではなく、イージーミスばかりで、それは戦術、技術以前のこと。プロなんだから、そんなことは分かるはず。どういう気持ちでやっているかまでは分からないが。(降格したときの)磐田にも似た感じはあった。でも今は、あのとき以上にチームの成績、数字が悪い。1人1人がいくら頑張っても、何人かサボるだけで試合は難しくなる」

 淡々と、ただ怒りを押し殺して語る山崎の言葉が、当時のチームの空気を余すところなく表している。

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著者プロフィール

1969年生まれ。相撲専門誌、サッカー専門誌の編集を経て、2009年よりフリーランスとなり新潟に移住。日々、アルビレックス新潟を追いかける。サッカー専門誌時代はJ1昇格の2004年から2008年まで新潟を担当。04年8月の親善試合でビッグスワンのピッチ脇にリーガ、UEFAカップの二つのカップをドヤ顔で飾ったバレンシアを、スペイン代表GKカニサレスに尻持ちをつかせた安英学の圧巻ボレーなどで粉砕した瞬間、アルビにはまる。 

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