ヴァンフォーレ甲府アカデミーの強化戦略 U−12の成果をトップにつなげるために

大島和人

甲府U−12がダノンカップに出場、世界2位に輝く

甲府U−12はダノンネーションズカップに日本代表として出場し、準優勝という成績を収めた 【写真提供:ダノンジャパン株式会社】

 甲府市の人口は20万人弱。2017年1月の時点で日本最少の県庁所在地だ。山梨県自体の人口も約83万人で、首都圏の1都6県とは比較にならないほど小さい。サッカーはともかく人口では、栃木県や群馬県(いずれも約197万人)にダブルスコア以上の差をつけられている。

 そんな山梨県だから、4種(小学生年代)のサッカークラブは約80チームしかない。ヴァンフォーレ甲府U−12のセレクションにも、40名ほどしか集まらないという。東京や神奈川、埼玉、千葉のJクラブに比べると10分の1程度のスケール感だ。

 しかし、甲府U−12はそんな土地から世界に飛び出した。16年10月のダノンネーションズカップに日本代表として出場し、世界の2位に輝いた。世界32カ国が参加する“U−12年代のワールドカップ(W杯)”において、甲府は予選リーグを3戦全勝で突破。ラウンド16からはフランス、アルゼンチン、スペインのクラブを破って決勝進出を果たした。

 西川陽介は甲府のアカデミーに携わって14年目。甲府U−12の立ち上げから7年間にわたって監督を務め、今季はアカデミーダイレクターに就任した育成部のキーマンだ。彼は自らが指揮を執ったダノンネーションズカップでの快進撃をこう振り返る。

「(1次ラウンドの)初戦がオランダだったんです。そうしたらベンチが『センターFWに蹴れ』『全部ターゲットに入れてサイドは走り勝て』とか、そういう感じなんですよ。ただ、(決勝で戦った)ドイツ(ドルトムント)だけは全く違いました。速いだけ、大きいだけではなくて、サッカー観があって。ウチの中2(中学2年生)以上のモノを持っている子もいました」

 とはいえ、そんな強敵ドルトムントを相手に、甲府は20分の戦いを0−0で終え、PK戦まで持ち込む健闘を見せた。

「お金を払ってもできない、素晴らしい経験をさせてもらいました。決勝はスタッド・ド・フランスでやらせてもらったし、ああいうゲームを経験したことは必ず選手たちの財産になっていくと思います」

クラブに根付く「ハンデを工夫で克服する」文化

育成部のキーマンである西川(左)。「フットボールブレインが大事」と指導方針を語る 【大島和人】

 実は、昨季の甲府U−12は身長が160センチを超えるような“超小学生級”が何人もいるチームではなかった。小学生年代では選手に考えさせず、単純に戦うことが得てして勝利の近道となるが、そういうサッカーもしていない。西川は「ボールを握る、ボールを大事にするということと、それを達成するためのフットボールブレイン(サッカーを考える力、感じる力)を大事にしている」と指導方針を説明する。

 そんな甲府の他クラブと違う特徴が「武者修行」の積極的な活用だ。

 釜無川の河川敷にある八田グラウンドの脇にはマイクロバスが何台も停まっている。西川を含めたアカデミーの指導者は、週末になれば選手をバスに乗せて首都圏、名古屋と日帰りの遠征に出ていくのだ。「日曜日はアカデミーのグラウンドを使えないので、遠征をさせます。小学生だと年間300試合くらい。中学生だと試合時間は短いですが、年間150試合くらいやる。サッカーをやりながら覚えていく」と西川は明かす。

 甲府の環境が恵まれているわけではないが、ハンデを工夫で克服するのがクラブに根付いたカルチャーだ。たとえば、育成年代で大切なのは練習後の栄養補給だが、甲府には食事用の施設がない。バナナと牛乳を用意して対応しているものの、それも十分ではない。となれば、食育のアプローチも実用的、実践的なものになる。「コンビニに行けばこれがそろうと教えるとか、練習が終わって甘いものが食べたくなったら『フルーツとようかんとクッキーのどれを選ぶ?』などと聞く、といったアプローチをしている」と西川はアカデミーの選手に行う食育講習の内容を説明する。

 もっとシンプルな躍進の理由もある。西川は「われわれは小学4年生からしかチームを持っていませんが、(昨季)世界2位の学年は加入してきた当時でさえ、他のJクラブに引けを取らない個性豊かな選手が入ってきた」と胸を張る。ナショナルトレセンU−12関東に送り込む選手数も、昨年は山梨県が「80分の8」を占めた。そのうち4名は甲府U−12以外の選手で、地域全体の底上げも見逃せない。

 西川もかつて山梨県トレセンの活動に関わっていたが、ナショナルトレセンには「1人2人しか選出されなかった」という。甲府U−18出身の太田修介(日本体育大3年)、末木裕也(法政大1年)といった大学サッカー界で活躍している選手も、小学生時代はそこに絡んでいない。

 山梨には韮崎高が1979年度から5大会連続で高校サッカー選手権の4強に入り、中田英寿を日本代表に送り込んだという明るい歴史もある。ただ近年はU−12の時点で他県に太刀打ちできず、そこから追い上げるのが常態だった。今はアカデミーが迎える人材も、送り出す人材も、相応の水準に達している。西川は「もう誰も甲府のアカデミーをばかにする人はいないと思う」と言う。

訪れた盟友・小佐野との痛切な別れ

西川の盟友である小佐野一輝(右)が闘病生活の末、38歳という若さでこの世を去った 【写真提供:ヴァンフォーレ甲府】

 ただ、甲府のアカデミーが進んできた道のりは険しいものだった。痛切な別れもあった。

 特に西川の盟友的な存在だった小佐野一輝が昨年7月、闘病の末に38歳の若さで亡くなったことは容易に克服できないクラブの痛手だろう。もちろん、残された者たちはそれを乗り越えねばならない。西川は小佐野に対する思いをこう述べる。

「彼はクラブに加入した年も年齢も一緒でした。私の親友でありライバルであり、このアカデミーを一緒にやってきた自分の一番の理解者でもあった。今の今も『小佐野がいなくなってしまってどうしよう?』と思うことがあります。志半ばで亡くなったので、悔しい思いはあったと思う。でも私たちに残してくれた部分はすごく大きいし、本当のチャンピオンアカデミーを目指して、彼の分もやっていこうと思っています」
 
 甲府のアカデミーに2人が着任したのは04年。トップチームは00年前後の経営危機を脱していたが、育成組織は未整備だった。

「バスで選手を送迎しながら、甲府南高校を借りたり、甲府城西高校を借りたり、朝一で電話をして緑が丘(スポーツ公園)を取ったり……。トップチームも同様に難しい環境でやっていた中で、2人で巡回サッカー教室からスタートしました。当時の合言葉は、マンパワーフルパワーでしたね」

 トレーニングマッチなどで対戦したJクラブのスタッフから「やってもしょうがない」という厳しい言葉を浴びせられたこともあったという。

「悔し泣きしながら(小佐野と)一緒に酒を飲んだこともあります。県内の父兄や指導者から『ヴァンフォーレに行くメリットはあるの?』と言われて、一緒に悩んでいました。そういうのをずっと我慢してやってきた」

 その後、09年には堀米勇輝がU−17W杯に出場し、10年にはプロ契約も果たした。甲府のアカデミーは徐々に強化が実を結び始める。ただ、県内にはUスポーツクラブやフォルトゥナといった小中学生年代の強豪チームが他にもあり、県内の有望選手がすんなり甲府に集まっていたわけでない。加えて、山梨県は有望選手の県外流出が多い土地柄だ。

 例えばU−20日本代表の長沼洋一はUスポーツクラブの出身で、サンフレッチェ広島ユースから広島のトップチームに昇格している。ただでさえ人口が少ないところに、Jクラブ、県外の強豪校に人材を“抜かれる”のだから、強化は容易ではない。これは街クラブに限った話でなく、慶應義塾大ソッカー部で主将を務める手塚朋克も、甲府U−15から静岡学園に進んだ選手だ。

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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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