企業クラブから地域に根ざしたJクラブへ J2・J3漫遊記 ブラウブリッツ秋田 後編

宇都宮徹壱

「なり手のいなかった」社長業を引き継いで

代表取締役社長の秋田の岩瀬浩介氏は広報スタッフ兼任で10年まで現役を続け、12年から現職 【宇都宮徹壱】

 TDKの選手として06年の地域決勝を戦った岩瀬が、秋田フットボールクラブ株式会社(当時)の取締役社長に就任したのは12年のことである。クラブ化した10年は広報を兼任しながらプレーを続け、シーズン終了後に現役引退すると、11年は広報の仕事に専念。そして翌12年には、31歳でクラブ経営者となった(ちなみに秋田がJクラブになった14年、岩瀬は33歳にしてJクラブ最年少社長となっている)。もっとも彼自身は、この大役を進んで引き受けたわけではない。当人いわく「3回断った」末の決断であった。

「(社長就任のオファーを受けたとき)一応『決算書を見せて下さい』って言ったんです。当時の僕は決算書なんてまともに読めなかったですけれど、それでも『これはかなり危険だ』というのは分かりました(苦笑)。10年も11年もクラブは大赤字を抱えていましたが、それは(クラブ化してからも)TDKと同じような予算を組んでしまったというのが事の始まりでしたよね。加えて社長はビジネス畑の人ではなかったから、そう簡単にお金が集まるはずがない。そんなクラブの社長に、誰もなりたいとは思わないですよ」

 それでも岩瀬が社長を引き受けたのは「誰もなり手がいなければクラブをたたむしかない」という話を耳にしたからである。加えて、岩瀬自身が「僕は学がなかったから(笑)」と語るように、本当の意味でのリスクをよく分かっていなかったという側面も否定できない。もちろん気合や根性で何とかなる話ではなかったが、それでも岩瀬は「とりあえず1年間、死ぬ気でやってみます」ということで社長業を引き受けることにした。

 岩瀬が社長に就任してからの4年間は、文字通り激動の日々であった。13年に2月にJリーグ準加盟がようやく認められ、翌14年にはJ3に参戦。この年、地域のチームから、J2・J1昇格を目指す秋田を代表するクラブへの転身を図るため、本拠地をTDK時代のにかほ市から県都である秋田市に移す決断をしている。そして15年の秋には、クラブの債務超過が解消されたことが報じられた。しかしその間、クラブ経営はもちろん順風満帆だったわけではない。社長を引き受ける際には早々にキャッシュがなくなるのが見えていた中で、スポンサー集めと増資に奔走。給料不渡りの危機も2回あった。そんな時、彼を奮い立たせたのが自身の「Jリーグ体験」である。

「僕の出身は、茨城県神栖町。まさに(鹿島)アントラーズのホームタウンだったんですよ。アントラーズができたことで、街の風景がどんどん変わってくのを、小学生の時に身をもって体験したのが大きかったですね。一方、僕が今いる秋田では、人口流出、高齢化、そして自殺率といったところでネガティブな要素がたくさんあるわけです。でも、この地域の将来を本気で考えたときに、僕自身のJリーグの実体験が秋田でも起これば、きっと何かが変わる。そういうイメージは常に持っていました」

「逆算」から考える、ユニークな経歴の指揮官

昨シーズンからチームを率いる間瀬秀一監督。千葉時代はイビチャ・オシム監督の通訳も務めた 【宇都宮徹壱】

 クラブ経営に安定の兆しが見られるようになった14年のオフ、攻めの姿勢に転じるべく岩瀬が最初に着手したのが、新しい指揮官の招聘(へい)であった。白羽の矢が立ったのは、S級ライセンスを取得したばかりの間瀬秀一。ジェフユナイテッド千葉、東京ヴェルディ、ファジアーノ岡山でのコーチ経験はあるものの、自らがチームを率いるのはこれが初めてである。就任1年目は、すでに編成は終わっていたこともあり、思い通りのチームマネジメントとはならなかった(順位も12チーム中8位に終わった)。そして迎えた今季、間瀬は16人の選手を入れ替える大改革を断行。その理由を本人はこう説明する。

「16人については、本当にこのクラブのコンセプトに合う選手に来てもらいました。重視したのが、理解力とコミュニケーション力。あとはサッカー選手としての最低限の技術を持っていればいい。J1やJ2から降りてきた選手も、ほとんどいない。それはなぜかというと、JFLやJ3で躍動している人間の方が戦えると思ったからです。実際、久富賢(前藤枝MYFC)だったり浦島貴大(前FC琉球)だったり、呉大陸(前ファジアーノ岡山ネクスト)だったり、同カテゴリーかその下から連れてきた人間の方が活躍していますから」

 結果、今季の秋田は開幕から11試合負けなし(5勝6分け)というクラブ新記録を打ち立て、5月は首位をキープし続けた。千葉時代、イビチャ・オシムの通訳を経験したことで指導者の道を志したこともあり、間瀬のコーチング哲学は非常にユニークで刺激的だ。そのすべてをここで紹介できないのは非常に残念だが、とりわけ印象に残った言葉をひとつだけ紹介しておきたい。それは「僕の仕事は、選手と選手の家族と社員、そしてサポーターと秋田県民の幸せのためにやっているんですよ」というものである。今季の好調についても「幸せにする」という目的から逆算した結果なのだと言い切る。

 そういえば社長の岩瀬も、社長業を続けてきた理由について「クラブを支えていただいている秋田の皆さん、そして従業員と選手、その家族を幸せにするのが僕の仕事ですから」と語っていた。全国リーグへの重たい扉を開いてから10年、市民クラブとなってから6年、そしてJ3にチャレンジしてから3年。その間、さまざまな危機に直面しながらも、そのたびにクラブは試練を乗り越えて今がある。そして今季、J2ライセンスを持たない秋田が奮闘を続けているのは、フロントと現場が「クラブに関わるすべての人たちを幸せにしたい」という想いで一致していることと決して無縁ではないだろう。今回の取材を通して、またひとつ気になるクラブが増えた。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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