東京23区にもJクラブを! 関東1部クラブの壮大な試み

宇都宮徹壱

東京には「フットボール成分」が足りない

7月30日、VONDS市原FCとの天王山を1−0で制し、サポーターと喜びを分かち合う東京23FCの選手たち 【宇都宮徹壱】

 とある「東京のフットボールシーン」をご案内したい。といっても、舞台は味の素スタジアムではなく、5000人収容の江戸川区陸上競技場(通称、江戸陸)。カードは、7月30日に行われた東京23FC対VONDS市原FCである。J1から数えて5番目の関東リーグゆえ、ピッチ上で展開されるプレーのレベルは決して高くはない。それでも1位(東京23FC)と2位(市原)による首位決戦とあって、メーンスタンドはほぼ満席の状態。0−0のまま迎えた後半44分、CKから味方がバーに当てたボールを飯島秀教が押し込み、ホームの東京23FCが決勝点を挙げる。次の瞬間、江戸陸のスタンドは5部リーグとは思えないくらいの大歓声と興奮に包まれた。

 東京のフットボール事情について、あらためて考察してみることにしたい。2020年夏季五輪の開催地・東京は、今大会の開催地リオデジャネイロや前回大会のロンドンと比べて、圧倒的に足りていないものがある。それは都市が持つ「フットボール成分」だ。リオにはカンピオナート・カリオカ(リオデジャネイロ州選手権)があり、ボタフォゴ、フラメンゴ、フルミネンセ、バスコ・ダ・ガマといった世界的なメジャークラブがしのぎを削っているのは周知の通りだ。では、ロンドンはどうか。

 今さら多くを語る必要はないだろう。今季のプレミアリーグだけでも、アーセナル、チェルシー、トッテナム、ウェストハム、クリスタルパレスと5クラブ。さらにチャンピオンシップ(2部)以下にも、QPR、フラム、ミルウォール、チャールトンなど、実に10以上のクラブが「プロフットボールクラブ」として100年前後の歴史を刻み、それぞれに熱烈なサポーターと独自のスタジアムを有している。ロンドンはまさに、世界ナンバーワンのフットボールシティだ。

 ロンドンと東京、両都市の人口と面積を比較してみると、グレーター・ロンドン(シティ・オブ・ロンドンと32の特別区)で約855万人/1572平方キロであるのに対し、東京都は約1350万人/2191平方キロ。数字の上では東京のほうが大都市である。ところが、都内を本拠として全国リーグを戦うフットボールクラブは、FC東京(J1)、東京ヴェルディ、FC町田ゼルビア(いずれもJ2)、東京武蔵野シティFC(JFL)の4クラブのみ。しかもそれぞれのホームスタジアムは、調布市(味の素スタジアム)、町田市(町田市立陸上競技場)、武蔵野市(武蔵野市立武蔵野陸上競技場)と、いずれも23区外である。ロンドンをしのぐ大都市・東京。しかしフットボールに関しては、クラブ数もスタジアム数でも到底及ばないのが実情である。

「東京23区にはJクラブがないから、俺らで作ろうぜ」

東京23FCの原野大輝GM。「23区にJクラブがないなら自分たちで」という軽い気持ちで設立したという 【宇都宮徹壱】

 東京在住のサッカーファンであれば、誰もが一度は思ったはずだ。「なぜ、23区を本拠とするプロサッカークラブがないのか」と。人気サッカー漫画『GIANT KILLING(ジャイアント・キリング)』では、ETU(イースト・トーキョー・ユナイテッド)という、台東区浅草を本拠とするクラブが登場するが、それもまた原作者の密かな願望が反映されての設定であろう。スタジアムの問題に加えて、地元への帰属意識が薄い都民気質も相まって、23区内から全国に打って出るのは容易ではない。しかしそんな中、最も近いポジションまでたどり着いたクラブこそ、今回紹介する東京23FCである。

 このクラブが産声を挙げたのは03年。今からわずか13年前の話だ。設立したのは現GMの原野大輝、当時はまだ25歳の若者であった。原野は01年、JFLに昇格したばかりの佐川急便東京SCで、けがのため現役を引退。その後、関連会社の佐川コンピューターシステムに転籍となるのだが、サッカーへの想いは断ちがたく、佐川を退団した選手たちの受け皿として設立したのが東京23サッカークラブであった。以下、原野の証言。

「最初は『佐川東京23SC』という名前で活動しようとしたんです。会社とは関係ないクラブだけど、上(のカテゴリー)に上がれば会社の力を借りることもあるかなと思って。そしたら会社から『ウチは関係ないから』ということで、結局『佐川』を取って東京23SCになりました。当初から『東京23区にはJクラブがないから、俺らで作ろうぜ』っていうノリでしたね。具体的な計画やビジョンはなかったですが(笑)」

 03年、東京23SCは、東京都リーグ4部に参戦。毎年のようにカテゴリーを上げ、06年には都1部に到達する。しかし、そこからの道のりは険しかった。都1部は思いのほかレベルが高く、東京23FCは毎シーズン、中位に甘んじることになる。このままではいけないと思っていたときに、東京青年会議所の会合で会社経営者の西村剛敏に出会い、一気にクラブ改革がはじまった。西村がクラブ代表に就任し、10年にクラブ運営のための「株式会社TOKYO23」を設立。そしてクラブ名も「東京23フットボールクラブ」と改め、原野が監督に就任。これらの改革が奏功し、東京23FCは都1部で初優勝を果たす。それにしてもなぜ、原野自身がクラブの代表とならなかったのだろうか。

「実は09年から11年、僕は佐川急便本社に戻って管理部や人事部の事務職をやっていたんです。普通の事務作業やアルバイトをとりまとめる仕事なんかをしていたんですけれど、夜に練習があったので練習日は定時に帰らせてもらっていましたね。『なんで原野さんだけ、いつも定時で帰れるんですか?』と聞く人もいましたけど(苦笑)、当時の上司がとても理解のある方で、それで社業と監督業を何とか両立することができました」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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