追悼・千代の富士 正解へ最短距離で生き抜いた稀代の大横綱

荒井太郎

連日の出稽古で速攻相撲を磨く

1981年7月、横綱昇進が決まり記者会見する千代の富士 【写真は共同】

 優勝31回、通算1045勝、数々の金字塔を打ち立て、大相撲界初の国民栄誉賞を受賞した第58代横綱千代の富士の九重親方がすい臓がんのため、7月31日、61歳の若さで亡くなった。

 若いころは細身の体ながら投げにこだわる相撲が災いし、何度も肩の脱臼に苦しんだ。三役に昇進しては厚い壁に跳ね返され、特にのちの大関琴風には、十両時代の初対戦から7連敗と大の苦手としていた。

「ケガをせず体にも負担がかからない相撲とは何か。それが左の前まわしを取って一気に攻め込む相撲だった」

 来る日も来る日も琴風のもとへ出稽古に行き、苦手を克服した話は角界では有名だ。成果は劇的な形で現れた。7連敗後の対戦成績は千代の富士の22勝1敗である。左の前まわしを取って一気に走る速攻相撲は、琴風との稽古によって磨かれていった。

「がっぷりになったら、こっちは体が小さいから敵わない。そうなる前に十分ではなく十二分の力を出し切る型を完成させた」

敗れても弱点を見抜いた末の初優勝

 自分の相撲を確立した千代の富士は関脇で迎えた昭和56年1月場所、初日から白星を重ねていき、10日目に横綱北の湖が敗れたことで単独トップに立った。日を追うごとに取り囲む報道陣の輪が大きくなっていき、日本中を席巻することになる“ウルフフィーバー”がうねりを上げた場所である。

「プレッシャー? マスコミは味方でしょう。もう翌日のスポーツ紙を見るのが楽しみだったよ。いいことばかりを書いてくれるんだから。気分よく千秋楽までいきましたよ」

 過熱するフィーバーの渦中にいた主役はマスコミをも味方につけ、プレッシャーなどどこ吹く風。単独トップのまま、千秋楽の北の湖との直接対決を迎えるのである。勝てばすんなり優勝だったが、本割はつり出しに敗れた。しかし、敗れながらも冷静な目で相手の弱点を見抜いていたのだった。

「あの時はつった北の湖さんが膝から落ちて倒れて、逆に負けた自分が土俵下で立っていた状態だった。だからポイントは下半身を攻めることなのかなと。『負けて覚える相撲かな』ってあるでしょ。それが瞬時にできたという感じかな」

 果たして、両者による優勝決定戦は千代の富士が右からの上手出し投げを放つと、北の湖は両膝から崩れて土俵に這った。初優勝を決めた“ウルフ”は場所後、大関に推挙されると、大関もわずか3場所で通過し、同年9月場所で新横綱に昇進した。

 しかし、新たな試練が待っていた。新横綱場所は3日目から休場。早くも短命横綱かとささやかれた。

「ケガを少なくしなくてはならないし、もっとパワーもつけなければならない。何をしたらつかめるのかといえば、やっぱり稽古でしょ。やることをしっかりやって、土俵に上がらないと結果を残せないと思った」

 休場明けの翌11月場所は北の湖、2代目若乃花の2人の先輩横綱が休場。いきなり一人横綱となったが、重圧を跳ねのけて見事、横綱初優勝となる3回目の賜盃。「あの優勝で15日間のペースや精神的なもの、横綱としていろいろなことが分かって、自信を持った場所だった」と振り返り、以後、優勝回数を順調に伸ばしていく。

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著者プロフィール

1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、百貨店勤務を経てフリーライターに転身。相撲ジャーナリストとして専門誌に寄稿、連載。およびテレビ出演、コメント提供多数。著書に『歴史ポケットスポーツ新聞 相撲』『歴史ポケットスポーツ新聞 プロレス』『東京六大学野球史』『大相撲事件史』『大相撲あるある』など。『大相撲八百長批判を嗤う』では著者の玉木正之氏と対談。雑誌『相撲ファン』で監修を務める。

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