揶揄に負けなかったしずちゃんの功績 五輪の夢叶わずも貫いたボクサーズロード

善理俊哉

ロンドン五輪から正式種目となった女子ボクシングに挑戦した南海キャンディーズのしずちゃん(右)。その挑戦は意味とは? 【善理俊哉】

 女子ボクシングが五輪の正式種目として採用されたのが2009年。その後の日本女子ボクシングを語る上で、“しずちゃん”こと山崎静代(よしもとクリエイティブエージェンシー)の存在は不可欠だろう。

 当初は、「相手にしない」方向でボクシング界が流れかけていた。しかし、ひとりの異色トレーナーによって、山崎は必要な存在になっていく。時に「客寄せ」と揶揄(やゆ)されながらも、女子ボクシング界の太陽をまっとうした「職業・お笑いタレント」のボクサーズロードはいかなるものだったのか?

「スポーツ色の濃いアマで上を目指そう」と提案

独特かつ絶妙な師弟関係だった山崎と梅津さん 【善理俊哉】

 お笑いタレントの間では東京・五反田にひとつのコミュニティがあって、「五反田芸人」(五反田界隈のお店に良く通う芸人たち)なる言葉もある。

 この街のワタナベボクシングジムにも数年前、彼らが多く通うピークがあった。全国にその名を知れ渡らせた人気タレントたちが、入れ代り立ち代りでリングでの実戦練習に身を投じていく。その中で紅一点ながら、随一の高身長と骨太に恵まれていたのが南海キャンディーズの山崎静代だった。タレントたちがクタクタになって練習を終わらせると、それを取り仕切ったトレーナーが「こりゃ、番組も見えてきたわ」と冗談交じりに笑った。

 梅津正彦さん。トレーナーとして手腕を発揮する一方で、多くの映像制作でボクシング指導を引き受け、肩書には「勝たせ屋アクションディレクター」と自称した。指導に携わった名選手との師弟関係は、大半が短期的であったものの、山崎に関しては、梅津さんが悪性黒色腫(メラノーマ)に倒れた死後も含め、あくまで故人の作品だったと多くの関係者が認知している。様々な有名指導者たちが山崎の指導に携わったにもかかわらずだ。

 梅津さんはNHKドラマ『乙女のパンチ』(08年6月〜7月)で指導を任された際に山崎と交流を持ち、山崎はドラマが終わってもボクシングを続けた。そのモチベーションについて、梅津さんはこう語っていたことがある。
「お笑いのことは畑違いでよく分かりませんけど、しず(山崎)って外見からどことなく面白いじゃないですか。ボクシングの言葉でいえば“体格に恵まれている”んだと思うんです。だから他人より苦労せずに売れてしまったという自意識がずっとあって、ボクシングで自分を追い込んだら、経験するべきだった下積みの苦しさを免罪符のように体験できている。そんな感覚があるとも話していましたね」

 やがて向上心が公式戦出場にまで高まると、梅津さんは「お前がプロボクシングに身を投じたら話題先行が極端化して、中身の薄いビジネスに歯止めが効かなくなる。この競技に挑戦したい純心があるなら、スポーツ色の濃いアマチュアボクシングで上を目指そう」と提案したという。

タレントの挑戦にアレルギー反応も……

 この時期が五輪採用と重なると必然的にそれが目標になり、不可抗力のようにマスコミが注目した。「いち個人のボクシング挑戦」は結局、「有名タレントの五輪挑戦」として話題先行に変わってしまったのだ。

 試合経験ゼロ。それでも五輪を目指すことがあながち的外れではなかった。山崎の自然体重は69キロ以上75キロ以下のミドル級。最も体の大きな人間の多い欧州でもこの階級を自然とする女性は少ない。ましてや平均的に小柄であるアジアでは、今でこそカザフスタンや中国が正統派のミドル級選手を育成できているものの、五輪採用当初は無理やり増量した国家代表や代表ゼロの国が多かった。世界選手権に出るレベルでも試合経験の少ない選手が大半だったのだ。

 ただし、「少ない」と「ゼロ」では雲泥の差があり、これは練習で補えるものではない。山崎が「ゼロ」を脱却するには競技内の理解とバックアップが求められた。しかし彼女に対し“ボクシングをナメるな”という強いアレルギー反応を最も持っていたのは、競技を管轄する日本アマチュアボクシング連盟(現・日本ボクシング連盟)だっただろう。当時副会長だった同連盟の山根明・現会長も「最初は名前も聞きたくなかった」と山崎の印象を語っている。

 同連盟に実力初披露となった2010年・大阪でのスパーリングでは、強化を任されていた連盟役員がすぐに見切りをつけた。

「やめ、やめ! もう終わり」

 お話にならない。そんなレベルだと中断を告げられながらも、山崎は泣きながら最後まで戦い抜いた。

閉鎖的な部分が開かれるきっかけになった

大阪で行われたロンドン五輪挑戦の記者会見。右から山崎、山根会長、佐伯 【善理俊哉】

 ここから梅津さんは全国の競技関係者と交流する“行脚”を山崎にさせることを決める。そこには味方さえ欺く演出があった。

「何度同じことを言わせるんだ、いい加減にしろ!」――。梅津さんの山崎への指導には、練習場が凍りつくような罵声が付き物だった。

「できないことまでキツく当たってはね……」。厳しい熱血指導で知られたベテラン指導者さえ、そう懸念した上に、深刻な過呼吸もこの時期から出始めたが、不思議と師弟関係は切れなかった。これはいわば苦肉の策。山根会長は「過剰なスパルタ指導が梅津の演出だとは見当がついたが、彼の思惑通り、あれを通じて山崎がこの競技に人一倍本気であることが関係者に認められた」と話している。

 さらに梅津さんは行く先々で面識を持つ指導者に「ご指導をお願いします」と山崎を預けた。いくらアレルギー反応があったといっても、純朴な姿勢でボクシングに励む有名人に頭を下げられれば、大半の人間は悪い気はしない。この行脚のなかで、山崎の印象は瞬く間に好転していった。

 そして2011年5月、同連盟は山崎静代が12年のロンドン五輪を目指すことの記者会見を行った。会見には直前の世界女子ジュニア選手権でライトフライ級金メダルを獲得したホープ、佐伯霞(当時梅香中、現在は近畿大)も同席。こうした“バーター的”な方針も取られたため、山崎は「客寄せ」と揶揄されることもあったが、長年マスコミに閉鎖的であったアマチュアボクシング界が、そのドアを開く姿勢を紹介できただけでも、当時のこの競技には大きな価値があった。山崎は所属先のよしもとクリエイティブエージェンシーからもバックアップを受け、国内外で非公式試合やスパーリングに恵まれるようになっていく。

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著者プロフィール

1981年埼玉県生まれ。中央大学在学中からライター活動始め、 ボクシングを中心に格闘技全般、五輪スポーツのほかに、海外渡航を生かした外国文化などを主に執筆。井上尚弥と父・真吾氏の自伝『真っすぐに生きる。』(扶桑社)を企画・構成。過去の連載には『GONG格闘技』(イースト・プレス社)での『村田諒太、黄金の問題児』などがある

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