羽生結弦が抱く仙台への特別な思い 「信じること」の大切さを実感した5年

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一時は「スケートを辞めようかな」

アイスショー後に募金活動を行う羽生(右から2人目)。自身も被災したため、当時は憔悴(しょうすい)していたという 【写真:中西祐介/アフロスポーツ】

 羽生結弦(ANA)はよく仙台への思いを口にする。

「生まれた土地ですからね。そこで育ってスケートと出会った。そうじゃなかったら今の僕はなかったと思います。もしかしたら野球をやって有名な選手になっていたかもしれない(笑)。やっぱり自分の生まれた土地があったからこそ、僕はここにいると思うので、仙台への思いは強いのかなと感じます」

 もちろん、自分の育った地に愛着があるのは当然のことだろう。カナダを拠点とし、世界を転戦していれば、なおさら望郷の念に駆られることもあるはずだ。ましてやあのような未曾有の危機に直面したのだから……。
 東日本大震災が起きた2011年3月11日から5年がたつ。当時、アイスリンク仙台で練習していた羽生は、あまりに大きな揺れにスケート靴を脱ぐ間もなく、外に避難したという。自宅も被害を受け、それから4日間を避難所で過ごした。よぎったのは「スケートを辞めようかな」という思いだ。

「本当に生活することすら難しくて、ぎりぎりの状態でした。亡くなった人もたくさんいましたし、スケートをやっている場合ではないと。でも水や食料を供給してもらって、たくさんの人に支えられていると感じたんです」

 小学生時代に指導を受けていた都築章一郎の勧めもあり、師がいる神奈川スケートリンクに身を寄せた羽生は、そこで練習をしつつ、チャリティーアイスショーで各地を回った。都築は当時の羽生の様子をこう語る。

「震災後に会ったとき、『この子は今後スケートを続けていけるのか』と感じるくらい憔悴(しょうすい)していました。声をかけるより見守るしかなかったです。それでもアイスショーに出ているうちに立ち直ってきた。そういう状況の中でも彼は非常に冷静で、自分の技術に対して取り組む姿勢がしっかりしていた。それは大したものでしたね」

五輪で優勝しても表情はさえず

五輪で金メダルを取りながら、その表情はさえず。会見では被災地に対し「僕は何ができたのかと思ってしまう」と語った 【写真:ロイター/アフロ】

 震災から約1年後の世界選手権で銅メダルを獲得。2012年5月にはブライアン・オーサーコーチに師事するために、拠点を仙台からカナダに移した。そこからの飛躍は周知の通りだろう。2014年のソチ五輪では日本人男子選手としては史上初めて金メダルを勝ち取った。

 しかし、五輪で優勝したというのに羽生の表情はさえなかった。

「(フリースケーティングで)ベストな演技ができなかったのもそうだし、実感が湧かないというのもそうなんですけど、やっぱり震災のことが大きいです。本当に何と言っていいか分からないですし、自分に何ができたかというと、自信を持ってこれができたというものが何もなかったんです。そういうことを考えていたら、カナダに行って、震災が起きたところから離れていって、これでよかったのかなと。僕は結局、何ができたのかと思ってしまいます」

 競技後に行われた記者会見では、外国メディアから震災に関する質問が相次いだ。すでに約3年がたっていたものの、心の傷は癒えていなかったのだろう。時に伏し目がちに語る姿からは、当時のショックの大きさをうかがい知れた。ただ、故郷について話すときは、羽生の表情も幾分和らいだように見えた。

「カナダに行ってよかったとは思っています。でもその決断は非常に難しいものでしたし、仙台に残っていたいという思いはすごくありました。今回の五輪はカナダでやってきた集大成ですが、仙台にいた期間もそれと同じくらい大事ですし、仙台への思いも忘れないようにしないといけないと思っています」

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