「縁」がつないだ都築章一郎の意欲 フィギュアスケート育成の現場から(15)

松原孝臣

“根っ子”がしっかりしていた羽生

都築は羽生が現在の地位に上り詰めた要因として、“根っこ”と家庭環境がしっかりしていたことを挙げる 【写真:アフロスポーツ】

 では、羽生と出会った当時、どのような印象があったのか。

 すると都築はこう語る。
「決して特別な子だったとは思わなかったですね。スケートを教わりに来ているほかの子供たちと、特に違うところはありませんでした。スケートを始めた時から、今日のようなスケーターになる、特別な条件が備わっていたとは思いません」

 その上で、こう続ける。

「今のようになった理由を挙げるとすれば、“根っ子”でしょうね。根っ子がしっかりしていれば、木も生えてきます。でも根っ子のないところには何も生えてこない。あの(東日本大震災の)あと、『羽生はもうスケートを続けられないんじゃないか』と思った人もいたようです。でもあの時から、本当に成長していったと思います。根っ子があったからです。だから苦しみながらもはね返す強さがあったし、環境が変わっても伸びることができた。

 もう1つは、家族の絆というか、家庭環境がしっかりしていたこと。フィギュアスケートは、技術もそうですが、人間的なところも大きいと思うんです。特に小さい時、成長する環境があったかどうかで決まってきます。仙台のリンクはたくさんの選手がすでに育っていましたし、先輩たちや仲間と切磋琢磨(せっさたくま)することができました。それも大きかったでしょうね」

「青木と出会った今、体の許す限りは続けたい」

「青木と出会った今、体の許す限りは続けたいと思っています」と都築(左)は語る(写真は リニューアル前の神奈川スケートリンク) 【スポーツナビ】

 そして、青木と出会った。中学1年生だった2014−15年シーズンの全日本ジュニア選手権で5位。今シーズンはジュニアグランプリシリーズのラトビア大会に出場し、7位となった。この大会のショートプログラムでは、トリプルルッツ−トリプルループの史上4人目の成功者となった。全日本選手権にも初めて出場し、16位の成績を残している。

「青木と出会った今、体の許す限りは続けたいと思っています。またここで出発して、何かを残せることができればという気持ちになっています」

 出会いに加え、都築は指導者人生の原動力をこう説明する。
「フィギュアスケートが好きで好きでどうしようもなかったということです。自分を奮い立たせてくれるスポーツであり、支えになっていますね」

 では、フィギュアスケートの魅力とは?
「フィギュアスケートはスポーツであって、芸術も入っています。いろいろな人たちを刺激し、喜ばせるスポーツだと思います。だから羽生にも、こう教えてきました。『芸術性を追求しなさい』と」

 その教えは、今日にも生きているのではないか。
「また何かを残せれば」。衰えることのない気力を持つ都築は今後を見据えてもいる。

「長い時間でフィギュアスケートを見ていくと、10年がひとつのサイクルとして動いてきたように思います。今の時期からまた、スケーターが誕生してくるのではないでしょうか」

 また、こうも語る。
「今の女子の、ジュニアの選手のレベルは本当にすごいですよね。しかもたくさんいる。でも、五輪の日本代表の枠は多くても3人にすぎません。これからきっと、大変な時代が来ると思いますよ」

 神奈川スケートリンクはリニューアル工事を経て、2015年12月21日、横浜銀行アイスアリーナとして生まれ変わった。
 新しさを感じさせるリンクでの、日本のフィギュアスケートの歴史とともに生きてきた指導者のその2つの言葉は、なにやら暗示的だった。 

(第16回に続く/文中敬称略)

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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