元広島・河内貴哉、16年のプロ生活を語る ドラフト1位から育成、そして1軍へ

週刊ベースボールONLINE

引退後は球団広報としてチームに貢献する河内氏 【写真=BBM】

 大きな期待を寄せられてドラフト1位で入団した大型左腕。しかし、ユニホームを着た16年で16勝(28敗)、大輪の花を咲かせることはできなかった。フォームを見失った。左肩にメスを入れた。育成選手となってのリハビリは過酷を極めた。1軍のマウンドから離れること4年。苦しみ抜いた末に返り咲いた舞台。その過程がプロ野球人生の勲章となった。

 2015年10月1日、広島から戦力外通告を受けた。河内貴哉は「手術して4年間リハビリをさせてもらい、生涯カープと決めていた。カープで良かったと思える16年でした」と語り、あっさりとユニホームを脱ぐことを決めた。12月1日からは球団広報として、新しい道を歩んでいる。


――スーツ姿もお似合いです。

 高校を出てプロに入って、今まで野球しかしてこなかった身なので、不慣れなことだらけで、不安もたくさんある再出発になっています。でも、すべてが新鮮で充実した日々です。特に12月は、選手たちにイベントやテレビ出演の依頼がすごくたくさんあって、カープ人気にあらためて驚かされました。それだけカープの選手の需要があるんですよね。仕事は大変ですが、やりがいを感じています。

――10月1日に戦力外通告を受けましたが、野球をやめたからできたことはありませんか?

 やめてからやってみたのは、トレーニングをやめたこと(笑)。これまでできなかったことですからね。小学校3年で野球を始めて、こんなに長い時間、体を動かさないことは初めてです。本当に何もやっていないので、体の落ちる早さに驚いています。

――第2の人生を歩むにあたっての準備は、どのように進めたのでしょうか?

 自由契約になったときには仕事も決まっていなかったので、野球界から離れて一般の仕事に就くにあたって不安は大きかったです。パソコンもまったく触ったことがなくて、電源の切り方も分からず、「シャットダウンって何、コンセント抜けばいいんじゃない?」っていうレベル。そんな戸惑いを感じ始めたときに球団から広報職の話をいただきました。パソコンもできないことを話したところ、教室に通わせてくれたんです。いい準備をさせてもらって、感謝しています。

――そもそも、野球をやめることに逡巡はなかったのでしょうか?

 自由契約を受けた時点で続けようという気持ちはまったくありませんでした。体が元気でそれなりの球を投げられていたのなら、まだやりたいと思っていたのかもしれませんが、投げる球を自分自身で厳しいと感じていたので。手術した肩の状態も良くなくて、球速も120キロ中盤しか出なくなっていました。そのことにプロとしてモヤモヤした気持ちがありました。昨年の契約をしてもらったときも、このまま続けていいのかとすごく考えたんです。左肩を手術してからは厳しい状況が続いていたんですけど、あっさりやめられたのは自分の思うように体が動かなかったからですね。

――それほど左肩の状態は芳しくなかった。

 いまも雨が降る日は分かるくらい痛みが出ます。だから、契約を結ばないと言われたときは、解放された感じがありました。もう投げなくていいんだっていう感覚になってしまったんですよね。だから「トライアウトに挑戦します」、なんて思えなかったというのが本音です。

過酷なリハビリと復帰後の輝き

12年8月16日のヤクルト戦で復帰以後初勝利。 【写真=BBM】

 入団9年目の08年に損傷した左肩関節唇の再建手術を受けた。リハビリに4年の月日を費やし、再び1軍のマウンドに立ったのは12年5月23日の福岡ソフトバンク戦(ヤフードーム、当時)。その間、支配下登録を外れ、3ケタの背番号も身にまとった。関節唇の損傷は投手生命を左右する大事。近年でも斉藤和巳(08年手術)、馬原孝浩(12年手術)、斎藤佑樹(手術は回避)、松坂大輔(15年手術)ら、一流投手たちを苦しめてきた。その手術から復帰した河内は、12年に28試合に登板、13年は21試合連続無失点を記録し、左の中継ぎとして機能した。

――肩の関節唇の損傷は投手にとって致命傷です。

 僕の場合ははがれてめくれ上がって、傷ついている状態でした。それに加えて腱板も部分的に切れていたので、手術後も可動域が戻ることはありませんでした。左手は耳の高さまで上げるのが精いっぱい。だから、フォームもサイド気味に落としていたのではなくて、そこまでしか上がらなかっただけです。可動域が制限された中でやっていくしかありませんでしたが、それがすごくきつかったです。腕を振るときにしなりが出せないので、左腕という一本の棒で投げている感じでした。

――手術しても思うような回復は得られなかった。

 手術前は小指、薬指の2本が常にしびれている状況でした。日常生活にも支障があって、そこは改善されたので、手術して良かったと思うようにしているんですけどね。

――ただ、ピッチングスタイルの変更を余儀なくされました。

 手術したらまたスピードが戻るんじゃないかという期待があったんですけど、そううまくいくものじゃありませんでした(苦笑)。それが分かったとき、自分のこだわりを捨てられたことで復帰できたのではないかと思います。手術後は投げるボールが走っている感覚を1度も得られなかったので。球がいかないならタイミングをずらそうとか、インステップにしようとか、左打者1人を打ち取ることに重点を置いてできたのが良かったんだと思います。自分のこだわりを求めていたらそのままやめるしかなかったでしょうね。

――リハビリは過酷を極めたと思います。

 そうですね。それをあきらめずにできたことが今後の人生につながってくると期待しています。あのリハビリに耐えて、1軍のマウンドに戻れたことは、16年のプロ野球人生で唯一、誇りに思うことです。

――なぜ、あきらめずに乗り越えられたのでしょうか。

 まず、他球団だったらクビだったと思うんですよ。4年間も一軍で投げていないピッチャーで、年齢も手術が27歳のときだったので、30歳が絡んでの4年です。普通待ってくれませんよね。毎年、入ってくる人がいて、やめなくてはいけない人がいる厳しい世界。ダメな選手は戦力外で当然です。だから、できた理由の一番は球団が長い目で見てくれたから。それによって、僕も意地というか、何にも形を残せないまま終わるのだけはイヤだという気持ちになりました。投げる姿で球団に報いたかったんです。

――周囲の厚いサポートもありました。

 3軍のスタッフとは「何とかもう一度マウンドに」を合言葉に毎日、いろんな意見を出し合いながらやってきました。家族もそうです。嫁と付き合いだしたのは手術する直前。僕が投げているところを見たこともなく、結婚して仕事も辞めてずっと支えてくれました。そういう人たちに投げているところを見せたい思いだけだったので、どんなフォームでも、どんな球でも良かったんです。球速が100キロでも良かった。究極はナックルを習得してでも戻ってやるっていう気持ちでした。だから、球団から契約を結ばないと言われて、あっさりとやめると決められた一方で、自分から「やめる」という言葉は言いたくなかったという部分もあります。

――復帰後の4年で75試合に登板。2勝2敗10ホールドの成績を残したことは、大きな喜びではないですか。

 まず、11年に2軍で復帰できたとき(5月27日、対ソフトバンク/マツダ広島)、それまでやってきた思いがすごく出ました。その翌年に1軍で投げたとき、そのマウンドの素晴らしさを感じましたね。1軍のマウンドで1軍の打者を打ち取ったときの気持ちはプロ野球選手として特別なもので、一番の幸せです。数は少ないですけど、復帰して1軍の勝利に貢献できたことがうれしいですね。

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