乳がんと闘う女子レスラー亜利弥’の挑戦 「好きなことがあれば胸いっぱいできる」

ミカエル・コバタ

初診で“異常なし” しかし、翌年に検診を受けると……

乳がんのステージ4と医師に告知を受けているフリーの女子プロレスラー・亜利弥’が20周年記念興行を開催した 【田栗かおる】

 それは、あまりにも無謀すぎる挑戦だった――。

 乳がんのステージ4と医師に告知を受けているフリーの女子プロレスラー・亜利弥’(42)が1月8日、東京・新木場1st RINGで20周年記念興行を開催し、デスマッチという極めて危険な形式の試合に臨んだ。

 亜利弥’は3年半ほど前から、体の不調を感じていた。その後、胸に違和感を覚え、14年3月に乳がん検診を受けたが、検査結果は“異常なし”。いったんは安堵した亜利弥’だったが、胸の痛みは消えるどころか、ひどくなっていく。そして、15年2月に再度、別の病院で検診を受けると、乳がんを患っていることが判明。その時点ではステージ2と告げられた。

「おそらく、14年2月に検査した時点で、すでにがんだったんだと思います。でも、異常なしと言われて、放置してしまったので、発見が遅くなってしまった」(亜利弥’)

 医師からは、乳房温存手術が受けられるギリギリのラインと言われ、15年2月4日に即、手術を受けた。抗がん剤や放射線治療を勧められたが、それらを行うと、プロレスをする体力がなくなるため、食事療法やホルモン療法を続けた。

 しかし、がんの進行は想像以上に早かった。同年4月、ステージ4に進み、リンパ節、肺への転移も見つかった。同年5月から、スピリチュアル療法に取り組んだりもしたが、痛みは増すばかり。同年9月より、痛みを緩和する療法に切り替えた。

 同年6月に、一時リング復帰は果たしたが、やはりコンディションがすぐれず、ここ最近はリングから遠ざかっていた。

体が動かせるうちに自主興行を

「桜は見られない」という通告を受け、体が動くうちにと興行開催を決めた 【田栗かおる】

 96年4月14日、新団体Jd’女子プロレスの旗揚げ戦でデビューした亜利弥’は、この4月でちょうど20周年を迎える。本来、「春に記念試合ができたら」と考えていたが、医師から「桜はおそらく見られないでしょう」と非情な通告を受けた。

 ならばと、この1月に20周年記念興行を決行することを決断した亜利弥’は、地元(和歌山県和歌山市)での小中学校時代の同級生である田中将斗(ZERO1)に相談。当初、田中は「体調が悪いなら、やめた方がいいんじゃないか」と反対したというが、亜利弥’の強い思いを受け入れ、全面協力を約束した。

 医師からは、「街を歩いて、人と肩が当たっただけで骨折する可能性がある」として、絶対安静を言い渡されており、試合をすることにドクターストップがかかっていた。直近の検査では、がんが骨にも転移していることが分かり、1日3回、痛み止めの薬の服用を忘れることはできない。それでも、まだ体が動かせる状態である今だからこそ、自主興行を行いたかったのだ。

憧れの大仁田とのタッグを実現

憧れだった大仁田と同じリングに立つことになった亜利弥’ 【田栗かおる】

 亜利弥’にとって憧れの存在だった大仁田厚には田中が介する形で出場オファーを出し、それを快諾してもらった。

 亜利弥’と大仁田の間には、なんの接点もなかったが、彼女なりの思い入れがあった。実は高校3年生の時、大仁田のデスマッチに興味をもった亜利弥’は、FMW入団を夢見て、知人に履歴書を託したことがあった。その際、FMWオフィスから連絡が来ることはなかった。

「たぶん、履歴書がちゃんとオフィスに届かなかったのだと思う」と話す亜利弥’。あのとき、履歴書が届いていたら、亜利弥’はFMWに入り、大仁田や田中と同じFMWマットでファイトしていたかもしれない。それから、約24年の月日を経て、亜利弥’は大仁田、田中と同じリングに立つことになったのだから、人生とは分からぬものだ。

 15年12月9日、ZERO1の運営母体であるファースト・オン・ステージが主催する「超花火プロレス」茨城・水戸大会の会場で、大仁田と田中とともに記者会見を開いた亜利弥’は、乳がんのステージ4であることをカミングアウト。そして20周年記念興行の開催を発表した。その時、亜利弥’は大仁田の“おはこ”である電流爆破バットデスマッチに臨む意向を示した。

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