“血統”を継ぐ大西勝敬の決意 フィギュアスケート育成の現場から(13)

松原孝臣

「指導者としてはまだ、ぺえぺえ」

指導者としての経歴が40年に届こうという大西勝敬だが、自らを“ぺえぺえ”と言う 【松原孝臣】

「ここの練習を知ると、よそのリンクから来た先生たちがうらやましがりますね」

 大阪府立臨海スポーツセンター「りんスポ」で、フィギュアスケートの指導にあたる大西勝敬は言う。選手として競技に取り組む子供たちの練習時間を、きちんと確保できているところが、羨望(せんぼう)の対象になるという。

「それだけは誇れますね」

 練習体系など運用のシステムは大西が主となり、時間を重ねて作り上げた。

「僕たちはインストラクターだけど、このリンクを守ろうという思いから、放送の仕事をはじめ、インストラクターじゃない仕事もさせてもらっています。自分の仕事場だから、自分で守らないと」

 センターはかつて、閉鎖危機に揺れ、運動の先頭に立った高橋大輔をはじめ多くの人々の支援もあって存続につながった。いや、大西はここに来るまでに、2つのリンクの閉鎖を味わっている。その体験があるからの言葉であり、運営に積極的にかかわってきたのかもしれない。

 長いキャリアを積み重ねてきた大西は、言う。
「僕なんて、指導者としてはまだ、ぺえぺえですよ」

 すでに指導者としての経歴が40年に届く日も遠くはない。“ぺえぺえ”、という言葉は、どこかそぐわないように感じる。

指導で最も大切なのは、「基本を教えること」

山本草太もかつての教え子の1人。大西のもとでスケーティングを磨いた 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 その理由を明かす前に、大西は、指導で最も大切なのは、「基本を教えること」と言った。スケーティングを重視する。

 町田樹の指導においてもそうだった。

 以前、大西はこう語っていた。
「僕ね、あの子を預かることが決まってから、過去の滑りの映像を何日も徹夜して見たんですよ。徹底的に見て分かったのは、よくこれであの位置にいたな、ということ。それくらいスケーティングが下手だった。それがいろいろなところに派生していた。でもジャンプは上手だと分かったし、ここをこう直せば戦えるな、じゃあこうやっていこうと決めたんです」

 町田は毎日、コンパルソリー(氷上を滑り、スケートのエッジで定められた図形を描いていく)にも取り組むことになった。それがもたらした成果は、ソチ五輪シーズン以降の町田の滑りが雄弁に物語っている。

 現在は長久保裕のもとにいる山本草太も教え子の1人だ。高校1年生の山本は、昨シーズンの世界ジュニア選手権で銅メダル、今シーズンのジュニアグランプリファイナルで前年の銀メダルに続く銅メダルを獲得するなど、次代を嘱望される選手である。

「小学2年生の頃からですね。スケーティングをよくしましたよ。ジャンプが跳べない頃から、スケーティングは相当やりましたし、あまり好きじゃなかったサークル(氷上に円を描くこと)もやらせた」

 山本はスケーティングに関しても評価を得ている。それは大西のもとで、磨かれたものだった。

「練習はかなりやったけれど、能力が高いからよく吸収した。優秀だったなあ」

 大西が練習においてスケーティングを大切にしているのは、自身が選手であった頃の教えにある。

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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