反骨精神と歩んだ大西勝敬の指導者人生 フィギュアスケート育成の現場から(12)

松原孝臣

指導者としてもうすぐ40年

大西勝敬は大阪府立臨海スポーツセンターでフィギュアスケートの指導にあたっている 【松原孝臣】

「先生〜!」
 滑りに来た一般の女性の人たちが手を振る。
 それに、にこやかに、応対する。

 大阪府立臨海スポーツセンターでフィギュアスケートの指導にあたる大西勝敬だ。
「いやいや、僕、やさしくなんて、もともとはないですからね」
 と笑う。

 これまで、2度、指導者の立場で五輪に行った。カルガリー五輪に加納誠と、そしてソチ五輪に町田樹と。

 もともとは選手だった。指導者に身を転じてからの時間は長い。もうすぐ、40年に届こうとする。

 大西は、しかし、意外な言葉を口にする。
「好きでもなかったのに、こんなに長く、よくやったなと思います」

 では、何が大西をフィギュアスケートに、これほどまでに長く携わらせることになったのか。

フィギュアが好きだったわけではない

 大西がフィギュアスケートを始めたのは小学2年生のとき。当初はアイスホッケーをしていたが、フィギュアスケートに転じた。親の方針だったという。
 以来、選手となった大西が指導者になったのは、法政大学を卒業してすぐのことだ。

 本当は、銀行への就職が決まっていた大西の運命を変えたのは、卒業を間近にした頃に観た、全日本選手権だった。

「関西の選手たちが下位争いをしている。男女どちらもですよ。それを見たとき、関西に帰ろう、日本一を目指そうと、ふと思った。それがきっかけです」

 周囲の反対はなかったのか。大西は、笑って、このように答えた。
「こういう奴が一人おってもいいだろう、と」

 先に記したように、フィギュアスケートが好きだったわけではなかった。なのに大学生まで続けて、さらに立場は変わろうと、就職先を蹴ってまで続けることになった理由を、大西はこう語る。

「反骨精神が旺盛なんですね。選手の頃は、『男のくせに』と言われて、それでものすごい悔しい思いをした。それが力になった。それに当時の関西の指導者の方々も女性ばかり。じゃあ変えてやろう、と」

 大西が指導を始めるにあたって、考えていたのはただ一つだった。
「日本一を目指す」

 そこにも、反骨精神があった。

「東京にいるとき、嫌な思いをしたんです。大阪から東京に移るにあたって、大阪の重鎮の方から『東京に行ったら世話になれよ』と言われていた方がいたんです。でも行ったら、相手にしてくれなかった。実績がなかったからでしょうね。それで、今に見とれ、覚えていろよ、と。でも勝ってから言わないと負け犬の遠吠えでしょう」

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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