教員チームからJへの知られざる歴史 J2・J3漫遊記 レノファ山口<後編>

宇都宮徹壱

2008年の石垣島で出会ったレノファ山口

2008年、石垣島での地域決勝・決勝ラウンドに出場した時の山口。前列左から2番目26番が福原選手 【宇都宮徹壱】

 私にとってのレノファ山口とは、石垣島の紺碧の空と透明な海のイメージが分かち難く結びついている。今から7年前の2008年、全国地域リーグ決勝大会(地域決勝)の決勝ラウンドが沖縄県の石垣島で開催された。1次ラウンドを勝ち抜いた4チームが集い、上位3チームがJFLに昇格できる決勝ラウンドに山口は出場している。この年、中国リーグで悲願の初優勝を果たした山口は、地域決勝1次ラウンドでも静岡FC(現藤枝MYFC)、グルージャ盛岡、松本山雅FCに競り勝ち、大方の予想を裏切る快進撃で石垣島への切符を手にした。

 だが、喜び勇んで向かった決勝ラウンドで待っていたのは、厳しい現実と深い失望であった。石垣島で山口が対戦したのは、2大会連続で地域決勝に挑むFC町田ゼルビア、3シーズンぶりのJFL復帰を目指すホンダロックSC、そして4年越しの悲願であるJFL昇格に燃えるV・ファーレン長崎。いずれも地域決勝の厳しさと怖さを知り尽くした猛者(もさ)ばかりである。結果は、町田に0−2、ホンダロックに0−2、長崎に0−1。勝ち点1どころか1ゴールも挙げられず、山口の冒険は終わった。この大会に6試合フル出場し、のちに「ミスター・レノファ」と呼ばれることになる福原康太(現FCバレイン下関=山口県1部)は、7年前のチャレンジをこう振り返る。

「町田もロックも長崎も、強かったですね。特に町田は別格で、勝又(慶典=現長野パルセイロ)とか石堂(和人=現福島ユナイテッド)とか『なんで地域リーグにこんな選手がいるんや!』って思うくらいレベルが違いすぎましたから(苦笑)。ただし結果論ですけれど、あの時3位以内にならなくて良かったと思います。当時はクラブとして、全国を戦えるだけの体力はなかったですから、無理にJFLに行っていたらパンクしていたでしょうね」

 この時、チームを率いていたのは、前身の山口県サッカー教員団のOBで、日本代表Bチームに選出された経験を持つ宮成隆。宮成は当時、県内の総合支援学校で教員の仕事をしながらチームを指導していた。だが福原によれば「あの大会で、もっと本気にやらなければならない、というスイッチが入ったと思います」。それから2年後の10年、宮成は安定した教員の仕事を辞し、退路を断って山口の専任GMとなる。今回の取材では、宮成からも当時の話を聞きたかったのだが、残念ながらクラブのJFL昇格を目にすることなく、13年6月9日に肺がんにより死去。まだ56歳の若さであった。

教員チームはなぜJクラブを目指したのか?

監督として、そしてGMとして黎明期のクラブを支えた宮成氏。志半ばで13年6月9日に56歳の若さで死去 【宇都宮徹壱】

 前述のとおり、レノファ山口の前身は山口県サッカー教員団といい、戦後間もない1949年、進学校として知られる県立山口高校(通称、山高)出身の教員たちを中心に結成された。80年に中国リーグに昇格。その後、2度の県リーグへの降格と中国リーグ復帰を経験しているが、少なくとも06年以前は「Jを目指そう」などという大それたことなど考えず、純粋にサッカーを愛する地元の教員たちのためのチームであった。

 ところでレノファ山口以前に、全国リーグを戦っていたチームが県内に存在していたことをご存じだろうか? 72年の設立からわずか2年でJSL(日本サッカーリーグ)1部に昇格し、76年に解散した伝説的なチーム、永大産業サッカー部である。実はこの永大産業、山口教員団と同じリーグを戦っていたことがある。当時、教員団でプレーしていた佐竹博(現レノファ山口アンバサダー)はこう回想する。

「永大が県2部に昇格した年(72年)、飛び級での1部昇格を県協会に打診していたんです。協会が出した条件は、『野上杯争奪サッカー大会』という県内のカップ戦で優勝し、なおかつ1部最下位のチームに勝利すること。結局、野上杯で優勝した永大は、最下位だったウチにも勝って、その年に1部に昇格。1シーズンだけ一緒のリーグで戦って、永大は一気にJSLまで駆け上がっていきましたね(編集部註:当時、JFLはもちろん中国リーグもなかったため、永大産業は県1部から全社=全国社会人サッカー選手権大会優勝を経てJSL2部に昇格した)」

 佐竹によれば、その後も永大産業とはよく練習試合を行い、当時監督だった大久保賢やコーチのセルジオ越後と酒を酌み交わすこともあったという。あの伝説的なチームとレノファの前身チームとの意外な接点。それから時は流れ、永大産業の解散から30年後の06年2月、県協会は山口教員団を改組して将来のJリーグ入りを目指すことを表明する。その名も『レノファ山口FC』となり、教員団OBの宮成がGM兼任の監督に就任した。将来的な目標は「山口初のJクラブ」。しかし県協会がより重視していたのは、5年後の11年に地元で開催される山口国体に向けた県代表チームの強化であった。当時からのサポーターで、「レノファ」の名付け親でもある中川和由は、期待と不安が相半ばする視線を黎明期のクラブに向けていた。

「最初のシーズンは、アウェーでファジアーノ(岡山)にボコられ、ホームで佐川急便中国にボコられ、サポーターも10人くらいしかいませんでしたね。セレクションで何人か補強していましたが、基本的には教員団が名前を変えただけのアマチュアクラブでした。地元にJを目指すクラブができたのは、もちろんうれしかったですよ。でも、どこまで本気で上を目指していたのか、ちょっと不安に感じるところはありましたね」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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