晩節を汚し続けるロナウジーニョの現在 再び超絶技巧と笑顔を見ることができるか

沢田啓明

わずか2カ月半でフルミネンセを退団

フルミネンセをわずか2カ月半で退団したロナウジーニョ。現在は無所属が続いている 【Getty Images】

 9月26日、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで行なわれたブラジル全国リーグのフルミネンセ対ゴイアス戦(2−0でフルミネンセの勝利)に先発した背番号10は、かつて世界サッカー界の寵児(ちょうじ)だった頃とはもはや別人だった。

 スピードがなく、体がだるそうで、走っているより歩いている時間の方が長い。チームメートに足元へのパスを要求するが、自身が繰り出すパスは精度が低く、簡単にインターセプトされたり、流れてタッチラインを割ったり……。FKを蹴れば、ゴールの枠を大きく外れてしまう。ミスをする度、地元観衆がいら立ってブーイングを浴びせる。「もうやめてしまえ!」という罵声を聞きながら、両手を腰に当てて呆然と立ちすくむ姿が哀れを誘った。

 後半、彼がピッチへ戻ってくることはなかった。若手選手と交代させられたのである。

 そして、この45分間がロナウジーニョのフルミネンセにおける最後のプレーとなった。2日後の深夜、クラブが「双方の合意による退団」を発表。その後、本人が退団を申し出たことが明らかになった。

 2カ月半の在籍中、全国リーグとコパ・ド・ブラジルの計9試合に出場し、得点もアシストもなし。チームにまったく貢献できなかった。退団を知ったサポーターは、「一体、何のために入団したんだ」と憤った。

バルセロナ退団後は移籍を繰り返す

バルセロナ在籍時には世界最優秀選手に選ばれた。しかし、退団後はなかなか輝きを取り戻せていない 【写真:ロイター/アフロ】

 バルセロナ在籍中の2004年と05年に世界最優秀選手に選ばれた頃が、キャリアのピークだった。08年にACミランへ移籍したが、10−11シーズンに出場機会が激減し、10年のワールドカップ(W杯)南アフリカ大会出場を逃した。「母国で開催される14年のW杯には絶対に出場したい」と語り、11年初めには、リオの名門フラメンゴへ移籍した。

 この年、フラメンゴでは全国リーグの31試合に出場して14得点7アシストとまずまずだった。しかし、クラブの財政状況が悪化して給料の遅配が続いたことから、翌年5月末に契約を解除。アトレチコ・ミネイロへ移った。

 アトレチコ・ミネイロが本拠を置くベロオリゾンテは内陸地にある経済都市で、享楽的なリオとはまったく環境が異なる。夜遊びを抑えたので体調が上向き、13年のコパ・リベルタドーレス初制覇に貢献してサポーターから喝采を浴びた。この年の前半、ブラジル代表にも復帰した。

 しかし、13年4月を最後に代表に呼ばれなくなり、切望していた14年W杯出場はかなわなかった。以後、モチベーションが低下したのは誰の目にも明らかだった。チーム練習を頻繁にサボるようになり、レヴィー・クルピ監督(元セレッソ大阪)が「彼の存在はチームの利益とならない」と判断して退団を勧告。昨年9月、メキシコの新興クラブ・ケレタロに加入した。

 当初、ケレタロではサポーターから熱狂的に歓迎され、本人も「クラブにタイトルをもたらすために来た」と大見得を切った。しかし、やがて練習に身が入らなくなり、監督の信頼を失ってゆく。次第に出場機会が減り、今年6月に退団。7月11日、フルミネンセと16年末までの契約を結んだのである。

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著者プロフィール

1955年山口県生まれ。上智大学外国語学部仏語学科卒。3年間の会社勤めの後、サハラ砂漠の天然ガス・パイプライン敷設現場で仏語通訳に従事。その資金で1986年W杯メキシコ大会を現地観戦し、人生観が変わる。「日々、フットボールを呼吸し、咀嚼したい」と考え、同年末、ブラジル・サンパウロへ。フットボール・ジャーナリストとして日本の専門誌、新聞などへ寄稿。著書に「マラカナンの悲劇」(新潮社)、「情熱のブラジルサッカー」(平凡社新書)などがある。

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