リンクに立ち続ける濱田美栄の信念 フィギュアスケート育成の現場から(2)

松原孝臣

大きな変化を遂げたフィギュアスケート界

日本のフィギュアスケート界が変わったきっかけは、荒川静香の金メダル獲得だったと振り返る濱田 【積紫乃】

 濱田美栄は、32年にわたってリンクに立ち、数多くの選手の指導にあたってきた。
 その間、日本のフィギュアスケート界は大きな変化を遂げた。

 今でこそ、グランプリシリーズ、世界選手権、五輪、さらにジュニアなどでも、国際大会では日本の選手が当たり前のように上位に名を連ねる。競技成績の変化ばかりではない。選手たちの活躍があって、数ある競技の中でも、高い認知度を誇る1つとなった。

 それらは濱田が指導者の道を歩き始めたころにはなかった光景だ。その光景の違いの間に、濱田の指導者としての歩みがある。

「これだけ変わるきっかけになったのは、やっぱり、トリノ五輪で荒川(静香)さんが金メダルを獲ったことじゃないんですか。あのときから、フィギュアスケートって変わってきたと思います」

 濱田は振り返る。
 今日とは異なる時代も長かったから、濱田自身、苦しい時期を過ごしたこともある。
 その1つが、自身が籍を置くクラブが活動拠点としていた京都の醍醐スケートリンクが閉鎖されたときだ。

 それは2005年9月のことだった。「フィギュアスケートが変わるきっかけになった」と濱田が言うトリノ五輪の、5カ月前というタイミングだった。

次々になくなっていったスケートリンク

醍醐スケートリンクが閉鎖されたとき、濱田の教え子には澤田亜紀らがいた 【写真:アフロスポーツ】

 当時、濱田が教えていた選手たちの中には、その前年の四大陸選手権で優勝した太田由希奈や、成長著しい澤田亜紀と北村明子の両高校生らがいた。そのとき、拠点が失われたのである。しかも醍醐スケートは京都府で唯一、通年利用できるリンクだった。

 閉鎖に追い込まれた理由の主となったのは、2002年、京都市が夏季はプール、冬はスケートに利用できる京都アクアアリーナを開設したことによる利用者の減少にあったという。

 醍醐スケートに限らず、京都府内では1986年と1999年にそれぞれ1つずつ、リンクが閉鎖されていた。府内だけではない。滋賀県の竜王スケートリンクは2000年に、2004年には大阪府高槻市の高槻O2スケートリンクが閉鎖となっていた。スケートリンクが次々になくなっていったことは、当時のスケート事情を物語る事実の1つかもしれない。

 醍醐スケートが閉鎖されたあと、濱田らクラブのメンバーを待っていたのは、練習場所を求めて転々とする日々だった。京都アクアアリーナはもちろんのこと、滋賀県、大阪府、さらに兵庫県にも足を伸ばした。

 選手たちは、濱田が運転する車で遠い道のりを通った。

「車も、みんなが乗ることができるものに買い替えたりしましたね。今、振り返ってみれば、よくそこまで通っていたな、と思うくらい遠くまで行っていました。でもそのころは、逆境とは感じていなかったと思います。あまりしんどいとも思わなかったですね。なにしろ、続けたいという思いだけでしたから」

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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