bjリーグ初の女性ヘッドコーチ、ナタリー・ナカセ=大男たちと渡り合う女性指揮官の素顔とは

柴田愛子

bjリーグ初の女性HC、ナタリー・ナカセ。オールスターでもイースタン・カンファレンスを率いるだけに采配に注目が集まる 【(C)HiROKO WATANABe/SAITAMA BRONCOS/bj-league】

 2011年11月、プロバスケットボール・bjリーグ史上初の女性ヘッドコーチ(以下HC)が就任した。
 埼玉ブロンコス、ディーン・マーレイHCの解任に伴い、アシスタントコーチ(以下AC)を務めていたナタリー・ナカセ氏がHCへと昇格した。1980年生まれの31歳。今までドイツ1部リーグで女子チームを率いた経験はあるが、bjリーグでは昨季の東京アパッチ、そして埼玉ブロンコスでのACを務めた経歴のみ。しかし身長157センチの小柄な彼女が、2メートル級のビックマンと堂々と渡り合っている姿は頼もしい限りだ。

大けがを乗り越えつかんだ名門UCLAでの司令塔

 米カリフォルニア州で生まれ育った日系3世のナタリーは、二人の姉を持つ3姉妹の末っ子。大のスポーツ好きの父親のもと、姉がバスケをしていたこともあり、自然とバスケを始めたという。3姉妹の中で一番器用で飲み込みが早かった彼女に対し、父親は期待をこめて熱心にバスケを教え込んだ。姉の影響で始めたバスケだったが、その面白さに彼女も夢中になっていった。そしてバスケの名門校である米カリフォルニア大学ロサンゼルス校(以下UCLA)に進むこととなる。
「自分の中でUCLAは夢でした。しかし通っていた高校からUCLAのような伝統ある名門校に引っ張られるというチャンスは今までなく、特に自分のようなサイズの小さい選手には声がかからないと思っていました。だから誘いを受けた時は本当にうれしかった」
 
 そんな喜びと希望にあふれた彼女を一気に絶望の淵へと追いやる出来事が起こる。大学入学を控えた高校のラストゲームで前十字靭帯と半月板を損傷するという大けがを負ってしまったのだ。「6歳からバスケを始めて常にバスケとともに歩んだ人生で、これほどまでに辛い経験はなかった」とナタリーが語るように、無事大学へは入学できたもののリハビリを含め復帰するまで6ヵ月を要し、その間は練習を見学する毎日。各地の高校から選抜されたハイレベルな同級生を目の当たりにし、自分だけスタートで出遅れてしまったことに対して焦りが募った。

 どうすることもできないこの状況を乗り切ろうと彼女は持ち前の観察力でチームを徹底的に分析した。実力ある先輩から学び取ることで、プレーできずともポイントガードとしての資質を磨いていった。また「大学ではバスケだけでなく学業面でもある程度のレベルを求められるので、その負担も私にとっては大きいものでした。幸か不幸かバスケが出来ないことで、学業の充実に時間を注ぐことができたのはプラスだったと思います」と自分が置かれた状況に対して常にプラス思考だった。

 学業で一定の成績を収めた彼女はその後、復帰するとたまっていたバスケ熱を発散させるかのように、練習にのめり込んだ。大けがを乗り越え、名門UCLAでレギュラーを獲得すると、さらにはキャプテンにも就任し、チームをけん引した。「厳しい練習を自分に課し、積み重ねた努力が実ったことで、卒業後もこの道で行けると確信した」と語るようにUCLAでの経験が大きな自信となって、彼女はプロの道に進むことを決意する。大学卒業後は米NWBLで2シーズン(2004−2006)、その後ドイツDBBLで1シーズン(2007−2008)プレーした。順風満帆に見えたプロ生活だったが、ドイツで再び高校時代と同じけがを負ってしまう。「あの時の辛さや苦しさを思うと、もう一度リハビリをして選手に戻ろうとは思わなかった。自分の中で再び同じような状況になったら引退しようと決めていた」と現役を退くことを決意した。

ドイツでのHC経験 そしてbjリーグへ

 現役をすっぱりと退いた彼女だったが、思わぬ朗報が舞い込む。同じくドイツ1部リーグに所属するチームからのHC就任のオファーだった。「自分はポイントガードというポジション柄、それまでずっとゲームメークをしてきました。またUCLA時代のコーチは試合中のチームコントロールを全面的に任せてくれていたので、HCに挑戦することに不安はありませんでしたね」とHC挑戦に意欲を見せていた。しかし彼女が任されたチームは2部降格の危機に立たされていた。シーズン途中でHCに就任し、火中の栗を拾うこととなったが、ギリギリで自動降格となる2チームから脱し、見事に1部残留を決めたのだった。「これはHCとして、とてもいい経験となりました」と彼女は振り返る。

 その後もう1シーズン、ドイツでHCを務めた彼女だったが、自分の中で何かを変えたいという思いが強く、母国へ帰ることを決める。その前にUCLAの同期で当時、浜松・東三河フェニックスに所属していたウィリアム・ナイトや、同郷の牧ダレン聡がプレーする日本に立ち寄り、骨休みを兼ねて日本のバスケを見てみようと思ったという。そんな何気ない観光をかねた滞在がbjリーグと彼女をつなぐきっかけとなる。

 ナイトや牧ダレンが所属する浜松や東京の練習を見学させてもらい、練習後も熱心に自主トレに励む選手の姿を見た彼女は、日本バスケの勤勉さを感じたという。練習後の個別トレーニングに重きを置いている彼女にとって、その光景はとても魅力的だった。また日系家庭で育った彼女の価値観と日本の価値観がしっくりはまったことも、bjリーグに携わろうと思った理由の一つでもあるそうだ。そして友人の勧めや日本の居心地の良さもあり、東京にACとして参加することを決意したのだ。

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