サーディ・カダフィは今
ペルージャの会長だったルチアーノ・ガウッチは、ちょっと変わった趣味を持っていた。中田英寿をヨーロッパに呼んだ会長だが、すべてのアイデアが素晴らしかったわけではない。セリエAに女性選手を先発させようとしたこともある。
しかし、最大の物議を醸したのは2003年6月、サーディ・カダフィとの契約である。記者会見には世界中からジャーナリスト、フォトグラファー、それにセレブたちも集まってきたものだ。「そりゃあ、すごいパーティーだったよ」と、ガウッチ。
現在は税金逃れにサント・ドミンゴに亡命している。カダフィに与えられた背番号は19。“たくさんの外国人選手を送り出してきたクラブ”に入団できたことを喜んでいた。
来るシーズンに向けてのトレーニングから、カダフィは参加した。チームメートもファンも複雑な心境だった。ホテルからキャンプへ通うカダフィの車には護衛車が付き添い、常に10人のボディーガードに囲まれていた。ボディーガードたちは、練習の最中もピッチの周囲に立って警戒を怠らない。
カダフィはほかの選手たちのような豪邸や高級アパートには住まなかったが、ブルファニパレスホテルに住んだ。このホテルは英国女王の定宿である。
ウディネでは、所有する数台のランボルギーニを駐車するために、ホテルのいくつかの駐車場を貸し切りにしたし、犬のために1部屋予約もしている。調教師はカーペットに寝ていて、カダフィの犬はベッドだった。食事はキャビアが好物だったが、ホテルが驚いたのは毎日数ダースもの牛乳を注文することだった。ある日、謎が解けたのだが、飲んでいたのではなく、カダフィの妻がクレオパトラのように牛乳風呂に入っていたのだった。
ウディネーゼ時代には、ジョバンニ・ガレオネ監督にロレックスの腕時計をプレゼントしている。そのシーズン、たった10分間出場したことへの感謝の印だった。ペルージャ時代に15分間プレーした04年のユベントス戦と、ウディネーゼでの10分間が彼のセリエAでのキャリアのすべてだった。
カダフィはセリエAでプレーできるレベルの選手ではなかった。FWとしてプレーした彼は、なかなかいいひらめきを持っていたものの、身体能力がプロとしては不足していた。ユース年代でレベルの高い試合を経験しておらず、イタリアへ来たときにはすでに30歳だった。肉体を作り上げるには遅すぎたのだ。それで禁止されているステロイドを使用したことから、カダフィは04年10月に3カ月の出場停止処分を受けている。まだ1分もプレーしていないうちにだ。
イタリアを去ったのは07年。06年5月のウディネーゼ対カリアリで、唯一印象的なプレーをしている。ガレオネ監督は振り返る。「彼はボールをうけるや、すぐにシュートした。入っていれば、ユーロ88決勝のファン・バステンのようなシュートだった」
カダフィにとってイタリアは夢以上だった。1990年には、ラツィオとユベントスの練習に参加していた。イタリア・スーパーカップをトリポリで開催するために100万ドル(約1億5200万円/当時)を払ったのも彼だ。お金さえあれば、サッカー界では相当なことができるということである。
20世紀前半はイタリアの植民地だったリビアは、イタリアと深い関係を築いている。サンプドリアのリッカルド・ガローネ会長はスポンサー会社ERG(石油会社)のオーナーであり、ムアマル・カダフィはユベントスの株の7.5パーセントを所有している。ガウッチは、シルビオ・ベルルスコーニに対してサーディと契約するように勧めていたという。リビアとの外交関係を深めるためだった。
イタリアに来る前、サーディ・カダフィはリビアサッカー協会の会長で、代表チームのキャプテンだった。アル・アハリ・トリポリとアル・イティハド・トリポリでプレーしたが、そこではイタリア時代のようなナイスマンではなく、まさに暴君だった。ベンガジで試合があった時、彼は観衆のブーイングに怒って相手チームを降格させ、スタジアムの設備を破壊し、数名のファンを刑務所へ送って拷問にかけた。現在、サーディ・カダフィはおそらくベンガジからの人々を追っている。
<了>
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