財前宣之が挑戦するタイ・プレミアリーグの現状=新天地タイで夢見る人々

宇都宮徹壱

ふいによみがる、1993年の光景

財前が所属するムアントン・ユナイテッドのサポーター。その応援様式はかつてのJリーグのサポーターを想起させる 【宇都宮徹壱】

 サッカーの取材現場に身を置いていると、ごくたまに、時間と空間がねじ曲がったような、何とも摩訶不思議な感覚に突如として襲われることがある。そう、まるでタイムスリップで過去に引き戻されたような感覚、とでもいうべきだろうか。場所はタイの首都、バンコクから車で40分ほど離れた、ムアントンタニのヤマハ・スタジアム。カードはタイ・プレミアリーグのムアントン・ユナイテッド対オソツパ・サラブリのナイトゲーム。その試合で私は、Jリーグが開幕した1993年にタイムスリップしたような既視感に浸っていたのである。4年ほど前、広末涼子演じる主人公がバブル時代の東京にタイムスリップする『バブルへGO』という映画があったが、まさにそんな感覚だったと思う。

 確かに目前で行われている試合は「プレミア」とは名ばかりで、本家プレミアはもちろん、Jリーグよりもはるかに競技レベルは低い。それでも、ピッチ内で繰り広げられるスピーディーかつスリリングな展開は見ていて純粋に面白いし、スタンドに詰めかけたサポーターの熱狂も本物だ。何より、コアサポーターの全員がレプリカを着て、マフラーを掲げてチャントを歌っているのには驚かされた。もちろん、その応援スタイルは決して洗練されたものではなく、チャントにしてもJリーグでよく耳にするメロディーばかりだ。それでも、そうしたやぼったさがかえって新鮮でビビッドなものに思えてくる。そう、まさに93年当時のJリーグのスタンドの光景が、そこには広がっていたのである。

 ここで簡単に、タイの国内リーグの歴史を振り返っておきたい。現在のプレミアリーグのベースとなっているのは、1996年にサッカー協会主導でスタートしたリーグである。だが、実質的には軍や警察や銀行などによるアマチュアリーグで、しかもバンコク市内でほぼ完結していた。その3年後、今度はスポーツ庁と観光・スポーツ省が主導となって、地方のプロクラブを集めた「プロビンシャル・リーグ」が設立される。その間、さまざまな紆余曲折があったのだが、09年に前者が後者を吸収する形で段階的に統一され、現行のプレミアリーグが発足した。この「プレミア化」を受けて、各クラブが強力に推し進めたのが「グローバル化」である。スポンサーやフロントの人材を国外から広く求め、外国人選手の補強も積極的に行うようになった。潤沢な資金によって戦力が上向くと、今度はプロフェッショナルとしての興行を意識するようになる。その結果、それまでは海外リーグのテレビ観戦が主流だったサッカーファンがスタジアムを訪れるようになり、国内リーグは一気に活況を呈するようになったのである。

財前宣之はなぜベンチでくすぶっているのか

試合前日、FKの練習に余念のない財前。コンディションは万全だが、チーム事情により出場機会は限られている 【宇都宮徹壱】

 後半37分、ムアントンがダメ押しの4点目を決めた。昨シーズンの王者ムアントンは、今季も別格の強さで首位を走り続けている。その様子を、財前宣之は表情をひとつ変えず、ベンチからじっと見守っている。残念ながらこの日も、彼の出場機会はなかった。

 多幸感に満ちていた17年前の光景が、突如としてフラッシュバックしたのは、多分に財前の存在が影響していたのかもしれない。93年は、日本でU−17世界選手権(現U−17ワールドカップ)が開催された年でもある。ホスト国の代表チームをけん引していたのは、中田英寿でも宮本恒靖でもなく、財前であった。その後の彼の流転のキャリアについては、今さら多く語る必要もあるまい。かつての「天才少年」は今年、34歳になった。すでに、ここタイでキャリアの終えんを迎える決意を固めている。しかし新天地タイでも、彼はなかなか出場機会を得られないまま、もがき続ける日々が続いていた。

「正直、タイに来て出られない状況というのは、想像できなかったですね。それでも、ただの選手として来たわけではない。タイと日本をつなげるという意味でも、ムアントンに一番最初に来た日本人という意味でも、すごく責任もありますから」

 試合翌日、インタビューに応じてくれた財前は、こちらが想像していた以上に前向きであった。試合に出られないことは、もちろん悔しい。それでも、自分がタイでプレーしているのは、もはや自分自身の問題ではなくなっている。そうしたベテランとしての責任感が、言葉の端々から感じられる。モンテディオ山形から契約延長の意思がないことを告げられたときには、真剣に現役引退を考えた。だが「タイに行きませんか」という一本の電話を受けて、「本来のポジションであるMFで最後にもう一回やってみたい」という気持ちが高まっていったという。チーム事情により、山形時代は慣れないFWでしか出場機会がなかったことが、タイ行きを決断させた大きな理由のひとつだった。

「もう体が動かないとか、通用しないとか思ったら、タイには来ていなかったと思うんですよ。確かに山形でもあまり出られませんでしたけど、まだまだできる自信はあったし、最後は本来のポジションであるMFでもう一回やってみたい。そういうのは心の中にあったと思います」

 財前に出番が回って来ない理由は、単純にチーム事情によるものである。日本人MF獲得に熱心だったタイ人指揮官が解任され、代わって就任したベルギー人のレネ・デザイェレ監督(かつてセレッソ大阪でも指揮した)は、コートジボワール人の選手たちを好んで起用した。やがて、そのうちの1人がベルギーのクラブに売られていくと、望外な移籍金が振り込まれたという(もちろん欧州側から見ればはした金だろうが)。直接、欧州とビジネスができるうま味を知ったクラブは、積極的に若いアフリカ系の選手を起用するようになり、結果として財前の出場機会は極めて限られたものとなってしまった。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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